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「パターソン」でもイギー・ポップのことが話題になっていたが、これはイギーこと本名ジム・オスターバーグ自身が、ザ・ストゥージズの歴史を淡々と飄々とクールに語るドキュメンタリー。ジャームッシュとイギーは、限りなく肯定的な意味における「反知性主義」という点で似ていると思う。過去を振り返りながらも懐かしむわけでなく、死んだ仲間がいても殊更に哀しみに暮れてみせるのでもない、やたら超然とした態度の内に唯一無二の感性が覗く。ライヴ映像があまりないのが残念。
ポール・セザンヌもエミール・ゾラも、個人的に大変関心のある人物なのだが、率直に言ってこの映画は、この二人を「俗情との結託」に矮小化した、悪しきドラマ化に陥っていると思う。『サント・ヴィクトワール山』の画家も『ナナ』の作家も、ひとりの人間だった、というのはもちろん当たり前に正しいが、そのような観点に立った時、決まっていかにもな紋切型に収まってしまう。実在の芸術家を描いた映画のほとんどが、この陥穽に嵌まっている。なぜならば、その方がウケるからだろう。
当然のごとく日本における宣伝では可能な限り薄められているが、全米ベストセラーの原作小説も、この映画も、一言でいうとキリスト教プロパガンダのごとき内容である。要するにヨブ記の現代版なのだが、宗教的な意味での評価は私の手に余る(賛否両論あるようではある)。石田純一松原千明夫妻の娘すみれが出演しているのだが、プレスキットに両親のことが一切記されておらず、色々と隠さなくてはならないことが多くて映画会社も大変だと思った。映画としては普通の仕上がりです。
ノーベル文学賞を受賞したことを自らの文学の衰退の証だとして苦悩するスペイン在住の作家は、その後も各国からの依頼や招聘をフリ続けていたが、アルゼンチンの故郷の町サラスから名誉市民を贈りたいと連絡を受けると、何故か帰ってみる気になる。彼の小説はサラスを舞台にしているのに、四十年一度も帰っていなかったのだ。実は喜劇だったとわかってからの展開が素晴らしい。細かいくすぐりも満載だし、一見素朴な映像タッチも効果的。アメリカ映画にも日本映画にも無いセンス。
シニア層のドキュメンタリーは時間との闘いだ。撮影開始からほどなくして被写体を失った中村高寛監督の「禅と骨」がその後たどった迷走と、撮影中にバンドメンバーが他界しアニメを用いた本作が自然と重なる。ドキュメンタリーにおけるアニメの役割はもっと考える必要があるかもしれない。アナーキーなライブ映像、自ら語りまくるイギー、伝説のバンドには似つかわしくないエピソード。長年の友情に裏打ちされたジャームッシュの危なげない手つきがしかしイギーの人間性を中和している。
天才肌のエキセントリックな画家セザンヌと、友の才能を認めながらも現実的に手堅く成功を収めるゾラ。二人のギヨームの対照的な芝居合戦は見ごたえがある。ゾラの最期の謎に迫るべく二人の友情のドラマに大胆な仮説を立てた脚本も悪くない。人工的な芸術の都パリと明るくダイナミックな南仏のロケーションのコントラストが美しい。エンディングはちょっとやり過ぎな感も。あれをやるとその前に二時間近く二人を追ってきた本篇の粘り強さがかすんでしまいかねない。
リハビリと啓発ビデオを兼ねたような作り。主人公を襲う試練の過酷さに反して、学芸会レベルの設定と演出が浮きまくり、役者の使い方も勿体ない。山小屋パートは途中から別の映画が始まったのかと思うほどの落差がある。もしこのテーマを扱って真に魂の救済を目指すならば、聖書を一冊読み直したほうがよほど得るものは大きいだろう。ただ、元凶となる誘拐事件の描写は思いのほかショッキングで迫力があるので、監督は作家としてそちらの腕を磨いていったほうが得策では。
故郷に残った者と出て行った者との埋め難い断絶をブラックユーモアとして描く。そのアイディアのパンチ力ゆえに出落ち感が強く、徐々に追い詰められていく主人公の心情や村人とのやり取り、閉鎖的な田舎町の描写などの掘り下げがもの足りなく感じてしまう。作風は監督コンビの前作を踏襲しているが、舞台が広がった分、演出力の弱さが露呈した結果に。シュールな線がスリルを奪い、悪夢としてはぬるく、手持ちカメラの不安定な画はオフビートにしてはウェットすぎる。
ドラッグ、酒、セックスがらみのゴシップは避け、ひたすら音楽に集中して迫るジャームッシュの知的なアプローチは、ロックの世界に残したイギー・ポップの偉大な足跡を巧みに引き出し、私のようなロックに不案内な者にもわかりやすく俯瞰してくれる。このコンビならではだろう。無愛想な口調で語られるエピソードも面白い。上半身裸で犬の首輪だけつけたあのステージ衣裳はハリウッドのB級歴史劇のエジプトの王様からとったと言う。ヴィクター・マチュアかユル・ブリンナーか?
二人の芸術家セザンヌとエミール・ゾラの生涯にわたる交流が、陰鬱なパリと明るい南仏を背景に、時系列に沿って綿密に描かれる。かつてフランス映画の主流であった文芸映画の味わいを懐かしく思い出す。「肉体の悪魔」「赤と黒」「居酒屋」「青い麦」などなど。トリュフォーたちヌーヴェル・ヴァーグの論客に「古き伝統」として厳しい批判の対象となったた名画の数々だ。ヌーヴェル・ヴァーグに熱狂しながらもこれらの名画に酔ったその昔を思い出させてくれる映画だ。
不幸な事件で娘を失い自暴自棄に陥っている男の魂の救済と癒しを扱った涙と感動のベストセラーの映画化だという。確かに救済と癒しは描かれているが、制作者たちが意図した感動は、優れた映画が与える芸術的感動とは別種のものだろう。不幸な者を見つけ救いの手を差し伸べようと近づいてくる新興宗教の持ついかがわしさのようなものを感じざるを得ない。あの小屋に現れた三人は何だったんだろうという疑問は最後まで残った。「実話」なのか「夢」なのかも気になるところだ。
主人公はノーベル文学賞を受けた小説家であるが、文芸映画とは対極のブラックユーモアをたたえたオフビートな映画だ。講演旅行で出かけた久しく離れていた故郷で過ごす悪夢の日々。旧知の仲間の温かい歓待がいつしか違和感、脅迫感となり、やがて絶望的な恐怖へと変わってゆく様が手に汗を握らせる。主人公の言動は矛盾に満ち首肯し難いところもあるがそこが人間的で説得力を持つとも言える。アメリカ南部作家の描くローカルカラーや不条理な笑いに満ちた小説世界に通じるものを感じた。