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笑いのレベルは、お笑い志望の中高生が、休み時間にクラスメイトの前で演じているようなド素人レベルだが、〝関ジャニ映画〟も今回で4作目、1作目から観ている私としてはこれまでで一番楽しめた。継続は力なり!? 話の展開に軽く又吉直樹の「火花」が入っているのもご愛嬌。合宿先でのダブルブッキング騒動や、インチキ霊媒師のエピソードは、いかにもチープでこっ恥ずかしいが、夢や友情を第一にしている辺りは、他愛ないが気持ちがいい。そして賑やかなフィナーレ。続篇も!!
原田監督は、対立するドラマを同時進行的に描いたり、一つの場面で大勢の人物を動かす演出はピカ一。登場人物が膨大な今回は特にその手際の良さに感心する。演出における静と動のバランスも。そういえば、感情抜き、たたみかけるような会話の応酬では、チラッと「シン・ゴジラ」を連想したり。けれども役所広司の家康の造形が面白すぎるせいか、肝心の石田三成に全く気がイカないのがツラい。生真面目で融通が利かない官僚ふうのせいか。見せ場の合戦シーンは、仕掛けありの大健闘!!
登場する盲ろうの方々は、その状態でずっと人生を送ってきた方がほとんどで、しかも取材されるということは、その方が家族や支援者とすでにしっかりコミュニケーションが成立しているからに違いない。だからこのドキュメンタリーを観たくらいで、たとえ一部でも盲ろうの方々を理解したなどというつもりはないが、それでもこの作品を多くの人に観てほしいと思う。触れる、さわる、ということは健常者でも最高のコミュニケーションであり、人間の基本的行為でもあるのだから。
正直、またですかー。ま、10代の人たちの需要がそれなりに見込まれるから、高3、夏、文化祭、ライブ、難病、タイムリープ、初恋、友情など、すでに散々いじり回された設定でも、飽きずに繰り返して映画化するのだろうが。むろん、それなりの違いもトーゼンあって、今回でいえば主演・村上虹郎の過剰なほどのクローズアップ。特に後半、彼が少女の病室を訪ねるシーンなど、画面の外に少女の台詞を流して延々と村上の顔、何やら動くブロマイドの図。少女役の吉田円佳は邪魔者扱い?
《お詫び》試写会に予定が合わず、締め切りまでに映画を見られませんでした。
ドラマ「真田丸」は総集編でしか見てないが面白かった。あの、個人として聡明なのに没しゆく旧体制に殉じる主人公とは、いまの若い世代の実感もしくは美化された自画像では。本作の主人公石田三成もまさにそれ。日本社会が発展を信じ、それとリンクして秀吉の立身出世が好まれた時代もあったが、本作ではそれは上の世代だけのバブリーな夢、あいつら妄執老人こちとら敗戦処理。岡田准一が好く演じた三成には余裕がないが驕りも退廃もない。敗れゆく英雄像を現代に共有する試み。
撮影の硬質さ、客観に踏みとどまる距離の置き方が印象的。日本のハンディキャップに関するドキュメンタリーには、主観的に被写体を見つめ、そこに生じるパーソナルな親密さから、その映画を観る者に共感を求めるというスタイルが多い気がする。本作は少し違う。見ることと聞くことが困難なひとたちは、生存のための庇護ではなくコミュニケーションや社会的な在り方を求めている(と、本作を観て学んだ)。そのための世の変化と理解のために本作は感傷と涙を堪えていた。良い。
何かをしたというカットや場面が欠落している。タイムリープでバンドものでヒロインが死んでからの話、というのはmiwa&坂口健太郎の「君と100回目の恋」があったし、村上虹郎主演の青春SFには「忘れないと誓ったぼくがいた」があったが本作はあれらと比べて、どうか。せっかくミュージシャン(〝たんこぶちん〟吉田円佳)がヒロインなのに「君と100回目~」よりもかなり演奏や歌を出し惜しみしてないか。この手のもの観過ぎてタイムリープ気分の私だが本作こそやり直してほしい。
旅館で巻き起こる騒動を〈グランドホテル形式〉で描いてみせた本作。関西ジャニーズJr.の面々によるネイティブな関西弁は、地方が舞台であることを活かしている。ジャニーズと松竹の連携が観客の支持を受け、更なる作品を生み続けて行けば、日本各地を舞台に繰り広げられる『釣りバカ日誌』のようなドル箱シリーズと成り得る可能性を秘めている。それは、彼らのダンス・スキルが発揮され、現実と虚構が入り乱れたクライマックスにおけるミュージカル場面の秀逸さが証明している。
武将たちの攻防は、どこか現代の〝ビジネス戦争〟のあり方と似ている。それは本作が戦(いくさ)そのものよりも、合戦に至るプロセス、人材への先制・勧誘を重視して描いている点からも窺える。役者の佇まいや姿勢、歩き方へのこだわりは勿論、岡田准一の運動神経・能力の高さには本作においても驚かされる。合戦場面における音響効果の細やかさが秀でている一方、合戦の優勢と劣勢が台詞によってのみ伝えられるだけで、映像からの視覚的情報からは伝わり難い点がかなり惜しまれる。
映画なるものが、所詮は〝目が見え〟〝耳が聞こえる〟人のための物でしかないという事実に打ちのめされ、同時に、映画だからこそ伝えられることもあると悟らせる。人との直のコミュニケーションを避ける傾向にある現代の日本社会。〝もうろう〟である人々の姿は、バーチャルな人間関係に依存する我々の問題に対して警鐘してみせている。本作には監督によるナレーションと劇中の言葉を視覚化した字幕が全編に施されている。劇場公開時には目を閉じてこの映画を改めて体感してみたい。
病室で主人公が少女に告白する序盤。それまで二人のアップで会話を切り返していたカットは、告白の言葉と共に少し引いた画へと切り替わる。この不安定なカメラ位置によって、少女の姿は遠くなっている。つまりフレーム内における〈距離〉は、心の〈距離〉を表現しているのだと解せる。それゆえ、主人公の姿が映されてもそこに少女の姿はなく、オフからの声しか聞こえてこない。終盤では同じ場面を繰り返すが、フレーム内の〈距離〉を縮めることで序盤との変化を印象付けるのである。