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この設定とこの内容、小劇場の芝居だったら、不条理コメディとして有効だったと思うが、映画だと戦略的な作意が目立ち過ぎて、何やらバカにされている気分。あからさまな暗喩にあからさまな不条理、いかにものキャラクターにいかにものエピソード、あまりにも表面的すぎて、裏目読みの余地すらない。むろん、予算の少ない映画で注目を引こうとすれば、それなりの戦略やスタンド・プレイは当然だと思うが、どうも不条理と非リアルを同一視しているような。次は直球でどうぞ。
精緻な背景美術も、カラフルな色彩(ちょっと原色が多い?)も、キャラクターの造型もジブリ色が濃厚で、そういう意味ではスーッと入っていける。が、原作がそうなのか、脚本のせいなのか、場面、場面の面白さはあっても物語方向との重心が曖昧で、何やら長い長い予告篇でも観ているよう。少女メアリの〝俄か魔女〟ごっこも、サービス・シーン的で、どうもゆるすぎる。魔女の花、魔法の大学、呪文等も、かつて観たことがあるような。魔女や魔法の呪縛から飛び出して下さい米林監督。
現実から逃れられないのなら、せめて週末だけでも別の現実に身を置けばいい。福島の役所仕事と、渋谷でのデリヘル嬢。自分で課した自虐的な制裁。あるいは暗い優越感? もう2年目。すっかりプロ。かつて、デリヘルに向いてないと言われたとき、やらなきゃダメなんです、と泣いて頼み込んだのだった。ダメって何が……。仮設で暮らす隣人たちや役所の同僚のエピソードなどと比べると、主人公の生き方は独り善がりのゲームのようでナットクしかねるが、でも軸足が福島なのはいい。
自分のキャラクターをしっかり演じている萩原みのりも久保田紗友もとてもいい。けれど彼女たち、ナント、5回も互いに立ち聞き、盗み聞きをして相手の秘密を知り、これにはビックリ。1度目は偶然、2度目はたまたま、3度目も偶然だが、さすがにこの辺りからこちらも〝立ち聞き〟病にとりつかれ、頭にしっかり回数をメモしたり。いずれも立ち聞きが不自然でないような場面を用意しているし、少女たちの演出も、認知症老女のエピソードもワルくはないが、それでも立ち聞きとは安易。
ひきこもり青年の独白からはじまり彼を取り巻く家族らが紹介されはじめたときには、お借りしていた試写サンプルDVDをデッキから取り出し、もうキミは空飛ぶ円盤におなり!とDVDをベランダからシャーッと投げそうになるが、まもなくレスリー・ニールセンの『フライング・コップ』エンディングでおなじみのネタと同根の、実に奇妙な未知との遭遇が起こり、これは一点突破的なところで言えば相当な傑作だと思った(終わらせかたがうまくない?)。主演飯田芳の静止力、凄し。
技法やスタッフワークについては本誌前号の特集を読んでいろいろ知り、感嘆。記事を読まない時点で私が素朴に感じたのは、近年の新しいアニメに対して画の情報量の凄さや細密さに驚かされつつ同時に無機質さや冷たさの印象を受けることが多かったのに(「君の名は。」「ひるね姫」)、本作はそうではないということ。漫画の丸みや手描きの風景画の感じで。また、本作の主題のひとつは2011年以降この国で浮上した技術盲信への疑義に見えた。好ましい作品。わが子に見せたいかも。
「海辺の町で」「さよなら歌舞伎町」、そして本作は、同時代的に見渡しても現在の出来事のうちの何ものかが歴史に変わるなかでの記録的な意味のある劇映画、未来への瓶詰めの手紙のような作品に見える。なぜ震災津波被害者の女性がデリヘル嬢になるのか。自罰か服喪か。ともかく彼女はこうだと描かれる。瀧内公美、良い。柄本時生がバイトホステスの女子大生と仲良くしたいのに聞き込まれてげんなりする場面もよかった。監督が会い、見聞きした、実在する彼ら彼女らの姿が刻まれた。
ポスターを見て、うわ、菊地健雄が「かもめ食堂」みたいなの撮った、もうダメだ……と瞑目したが全然違った。よかった! 映画もよかった。画、音、演出が良い。主演ふたりともナイスだが、特に、堂々たる非処女でカジュアルに悪い娘という萩原みのりが演じたキャラは出色。いまの高校生の環境と精神の荒廃には興味がある。それは娘がいる私にとってあと十数年後には自分がそれを生きる以上に厄介な問題としてやってくる。その殺伐から目をそらさないで勇気と希望を持つ映画を愛する。
宇宙の果てを想像できないのと同様に、一軒家内のミニマムな宇宙の摂理が人知を超えていることに変わりはない。自主映画特有の〝半径5m〟の世界を逆手に取った不条理は、低予算だからこそ為せる業。家屋の上階と下階が境界線を構築し、分断された空間として機能しているだけでなく、立体的な構図も生んでいる。またSNSの氾濫を反証にしながら、情報のあり方の真偽を問うているようにも見える。全ての原因は謎の球体にあるのではなく、原因は既に社会の中に存在しているのである。
誰もが思うことだろう「ジブリのようだが、確かにジブリではない」と。本作の評価は「ジブリ作品との比較から逃れられない」ことが大前提という厳しい立場にある。本来であれば個々の作品を独立して評価すべきだが、この映画には、黒猫・あぜ道・森林・雲上の建築物等々ジブリ作品を想起させる描写があまりにも多い。映画冒頭に登場する蝶はメタモルフォーゼを暗喩しているようだし、「この世界には人間に制御出来ない力がある」と描くことで現代的なメッセージも読み取れるのだが。
一国の首相が自身の妻を責め立てられたことに憤慨し、家族を守ろうとする。その気持ちを他人に置き換えられるような心を彼が持っているならば、市井の人々もまた家族を守ろうとする気持ちを汲めるようになるのではないか? と本作は思わせる。デリヘル従業員は「あんただけ特別じゃない、自惚れるな。仕事だから守るんだ」とヒロインに言い放つ。この言葉は〈日本〉という国のあり方を問うているようにも聞こえる。それゆえヒロインの纏う赤は決意を物語り、薔薇は誇りを物語るのだ。
この映画における〝ともだち〟という言葉は軽い。他人と直接対面せず、なるべく衝突を回避。SNSは容易に人間同士を繋げているかのように錯覚させるが、そのことを〝ともだち〟という言葉のニュアンスが象徴している。だがふたりの女子高生は、罵り合い、ぶつかり合う。それは〝ともだち〟でも何でもないからだ。そうすることで、接点のなかったふたりがやがて〝ともだち〟のような関係になり、「友達って何だろう?」と思わせるに至る。物言わぬ久保田紗友の存在感が素晴らしい。