パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
すでに短篇2作の「京太」シリーズがあるとは知らなかった。ずっと同じ子役が演じているという。その短篇でも防災頭巾をかぶっているらしい。でこの長篇第1作、いくら少年目線の映像だといっても、脚本も演出もたどたどしすぎる。あの日(東北大震災?)以来、頭巾をかぶっているという少年の設定も12歳ともなれば奇妙に思ってしまう。そして再び町に戻ってきたアメリカ人の英語教師へのストーカーまがいの行動。むろん理由はあるのだが。救いは屈託のない母親。次作を期待。
うーん、困った。ヒップホップ・ユニット、ヒルクライムのライブ映像と、彼らのヒット曲〈春夏秋冬〉をモチーフにした恋愛ドラマがセットになっているのだが、1作品で2つのお楽しみという狙いはともかく、物語のあまりの軟弱さにライブまで八つ当たりしたくなる。いや、MCのTOCは絵になる美形だし、楽曲もワルくないのだが。物語で特にアキレるのはヒロインの愚鈍さで、何かあると言いワケばかり。そんな彼女に忠犬ハチ公のように尽くす男子も困ったもんだ。これが今風ってか。
記憶喪失に難病、タイムスリップ、とんでもカップルに学園王子がどうしたこうした等々、少女漫画系青春映画の臆面も無い設定には、いまや溜め息をつく気力もないのだが、レレ、この「ReLIFE リライフ」はつい身を乗り出して観てしまった。会社という組織の不条理さに馴染めず、ニートになった主人公が、1年だけ17歳に戻って高校生活を送るという話。むろん、ご都合主義的ファンタジーなのだが、社会人経験アリの主人公と現役17歳のギャップを含め、脚本が前向きで、キャラもみな愉快。
「ラ・ラ・ランド」ならぬ「パ・パ・パークス」。作品には恵まれていないがいつも気になる橋本愛が、構えず、気取らずのスッピン的演技で、井の頭公園を自転車や徒歩で往き来、緑に日の光、風、池etc.それだけで心地良い。……のは事実だが、彼女が過去探しを手伝う羽目になる少女の登場はいいとして、その過去の再現が安手のメロドラマもかくや。遺されていたテープの楽曲も、どこがいいのやら。時代を考慮しての演出と映像なのだろうが、何やらここだけ「ホ・ホ・ホラー」のよう。
微笑ましい少年ものかと思いきや、やがて語られるものの重さに凝然とする。適切な例えではないが、子供はマンドリンで人を殺すくらいに、迷いなく狂ったように、シンプルで論理的なものだ。その子供が何もその述べ方に綾をつけず、不安だ、この国から逃れたい、と言う。大人のようにうまく自分を誤魔化して気をそらし、何も不安がないと思い、そう振舞うようには出来なかった少年が。その救いが西欧人。これもたしかに近代以降の日本の新たな神だ。彼が米国人でないこともよい。
多くの人が関わり、労力もかけ、期待するひとやひょっとしたら観たうえで素晴しいと思うひともいるかもしれないものをこの少ない文字で否定したくないので控えめに言うが、こんな駄目な映画をつくってはいけない。ドラマ部分の手抜きをしすぎたバカバカしさがもう凄まじい。クレジットに名前を並べている、現場スタッフ以外の役割の人間は何かもうちょっと考えるべきだろう。巧いとか下手とか出来の良し悪しじゃなく、単に金が抜かれているようにみえる。要確認という意味で必見。
弾まない。限定期間人生リピートというSF的設定ゆえ映画のなかでの展開が枠組みの決まったところに帰着し、ディティールの面白さと折々に出てくる小テーマのエモさのみで勝負するしかなかったからか。あと、キラキラ映画全般について、女の子がターゲットの観客層だとしても主人公はやはり男よりも女、または女と男の描き方が等分、あるいは「タイタニック」の結末くらいに男が女に尽くす映画がウケるように思われる。とはいえ本作には人類愛と呼べるほどの誠実さがある。良い。
米映画「はじまりのうた BEGIN AGAIN」を観たときとても楽しんだが、こういうの、つまり、女優が立派に歌って音楽を感じさせてくれること、街と音楽を一体のものとして描くこと、商業性とポップさへの強迫に断固とした意志としなやかな身のこなしで抗うことなどは日本映画ではできないだろうと考えたが、それは本作によって覆された。観ていて心地よい。出演者が表現する若々しさが輝いている。瀬田監督は少し自己模倣のサイクルにあるがこれならばまだ数本はそれでいい。
この映画は「ある日を境に誰かが突然いなくなること」を描いている。それゆえ、観客は自ずと事象の数々を震災と結びつける。例えば、主人公・京太の姿が通りの角に消え、誰もいない通りを映し続けることで「いなくなる」ことを印象付けている。また、朽ち果てた山の休憩所の姿は「そこにあったはずものがなくなる」ことをも示している。だからこそ、京太にとって町に帰って来た外国人教員の存在は「いなくなった人間が復活する」という〈奇蹟〉のようなものとして特別なのである。
ヒルクライムの楽曲が題材という縛りの中、いかに映画的要素を盛り込むのか?が本作の肝。ライブ場面では、例えば1曲をほぼノーカットでライブDVDのような撮影・カット割(というか正にそのものなのだろう)で見せ、物語とのシンクロらしきものは山崎紘菜の姿を挿入するに留まる。企画が企画なだけに、ファンの欲求を満たしつつ、音楽を聴かせるという意味では成功しているが、映画というよりも台詞のある長尺なPVという趣。劇映画のエンドロールとは異なるクレジット順は一興。
人生はやり直せない。だから、やり直すことを描いたタイムトラベル物やパラレルワールドを描いた作品に人は魅せられる。27歳の主人公同様、その頃の僕もまた思い描いていた未来とは異なる人生を歩んでいた。その人生を、本作では階段に例えている。登場人物たちが何かに迷う時、それはいつも階段で起こる。そして〝人生の階段〟を示すかのように、階段を登るカットを何度も挿入している。それゆえケツメイシの〈さくら〉をカバーした主題歌もまた〈やり直し〉ているのではないか。
井の頭公園100年という希有なお題。そして舞台は公園内という縛りの中、観客の興味を引くはずもないような題材を魅力的なものにした構成の妙。更に〝空間を超越する〟という瀬田なつき監督の作家性をも担保。またともすれば、つまらない脇役になっていたかも知れない女子高生役に命を吹き込んだ永野芽郁の演技アプローチも秀逸。本作は公園映画であり、音楽映画でもあり、もちろん青春映画でもある。多様な人々が集う憩いの場を描くには、このくらい豊潤で丁度いいのかも知れない。