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以前、某作家が、小説家になりたい人へのアドバイスとして、〈通俗を恐れるな〉と語っていた。「しゃぼん玉」の、どのキャラクターも、どの風景も以前に観たことがあるような既視感があるのは、段取り通りにことが運び、予想を裏切らないからだろう。演出もソツがない。結果として、わざわざ映画にするまでもないような、ちょっといい話に終わってしまい、通俗的以上のコクも深みもいまいち。近年、さまざまな役を演じている林遣都だが、今回も線の細さが歯痒い。
8ページほどの小泉八雲の原作は、すでに50年以上も前に小林正樹監督が4話形式のオムニバス「怪談」の第2話で描いている。若い木こりは仲代達矢、雪女は岸惠子。オールセット撮影で、吹雪も森も人工的に作ったものだった。今回は雪も森も実写で、時代こそ曖昧だが、洋服姿の人物も登場する。だからか、冒頭の、雪女が山小屋に現れるくだりはともかく、それ以降は、〝怪談〟というよりも因縁話めき、恐怖や神秘と無縁なのが残念。いかにも低体温ふうの杉野監督の雪女はワルくないが。
今夏公開「ハクソー・リッジ」は、熾烈を極めた沖縄戦で、絶対に武器を手にしなかった兵士の話。イーストウッドの「硫黄島」2部作同様、日本兵にも配慮した作品になっている。そして現実の沖縄――。ここでは多くの人々が、さまざまな場所、さまざまな立場、さまざまな思いで武器を持たずに戦っている。平和を、沖縄を、人々を守るために。ロボットのように無表情な警官たちが立ち並ぶ辺野古ゲート前などの抗議行動を含め、沖縄の人たちの、地に足の着いた戦いに心が震えてくる。
「私は、自分が見たい映画を作らなくてはなりませんでした」と、これが初監督の守屋文雄は書く。上等だ。〝見たい映画〟とは〝見たい夢〟。けれども他人が語る〝夢〟の話というのがこれまた退屈の代名詞で……。が、この作品は憎めない。というか観ているうちにショボい40男たちの〝マンガ〟熱を応援したくなる。設定は乱暴だし、場面もチープでいいかげん、へヴィな蛇を噛み殺したりのエピソードもバカバカしいが、男たち全員がとにかく大マジメ、ムサ苦しいが麗しくもあり……。
この「しゃぼん玉」は原作があるが本欄では地方振興企画映画を多数扱うため、地方よいとこ一度はおいで、みたいなものをよく観る。しかし単なる地方アピールを超えて、都会では生が次代までも持続可能なものとして感じられない、というのは共有されうる実感かもしれない。主役を演じた林遣都の名〝けんと〟は彼の本名で、都に出て名を成せというご両親の願いがあるそうだがそれを反語的に見つめ直すかのようなこの役もまた運命的だ。昨年の映画「怒り」の逆をゆく筋立てが好ましい。
キン・フー「侠女」をリバイバルで見直した。チンルー砦の激闘ののち死体の山を見渡すグの戦慄は自分が母性の選択によって生かされた一匹の精虫にすぎないと気づいたためで、雪女の夫となる巳之吉も物語の最後には同じものを感じたろう。「侠女」の元ネタ『聊斎志異』と日本の雪女伝承に直接の関係はないが、キム・ギドク映画に出演しリム・カーワイ映画でキム・コッピと共演、ヤスミン・アフマドと交流を持っていた杉野希妃が探り当て、企んだアジア的な女の魔と慈愛が本作だ。
あの圧制に対する抗いに参加したい。00年の「人間の鎖」(嘉手納基地包囲行動)以来沖縄に行ってない。最近は随分と行動不足。ごめん沖縄。当たり前の思いだ。これさえ保守的感性の輩には県外活動家予備軍と分類されるか。沖縄はじめ南西諸島への差別、彼の地と住民が軍の基地自体とそれらが引き寄せるリスクを集中して負わされていることへの気持ち悪さはそこに住まないゆえに強く感じる。それに気づかせてくれる価値ある記録・主張である本作が多くの人の蒙を啓くことを願う。
漫画『まんが道』で満賀道雄と才野茂が手塚治虫を訪問し、手塚が『来るべき世界』の原稿半分以上を捨てていたと知った二人が衝撃と発奮で帰りに自分たちの原稿を列車の窓から投げ捨てる件(実際の出来事ではない)を私は生涯忘れない。そういう表現に関わる者が知るべきこと満載なのが『まんが道』だが、この「まんが島」にもそれはあった。映画道として。水澤紳吾が「ぼっちゃん」公開中に毎日劇場前でチラシを配っていたことも忘れない。守屋文雄が映画をやり続けることも嬉しい。
ハードなオープニングから一転、桃源郷のような山間の町での暮らしが描かれる本作。〝箸を持ち直す〟など、人生をやり直すことのメタファーとなる描写が挿入されるなど、主人公の姿は平家祭の由来と重なってゆく。それゆえ映画の冒頭と終盤では彼の成長を、去ってゆく〝うしろ姿〟で表現している。同じ〝うしろ姿〟であるはずなのに、その意味が「逃亡」と「前進」と異なっている点は秀逸。2010年に発表された秦基博の〈アイ〉は、まるで本作のために作られたような趣がある。
監督・主演をこなす女優は、古今東西その例が少ない。そのひとりである杉野希妃は、既存の芸能システムにあえて背を向け、自らの映画キャリアを己の才覚で切り開いてきたという点でも特異な存在。本作では、その周囲とは異なる〈異質なもの〉としても雪女を描いている。〝あちらとこちら〟を暗喩させる劇中の川は三途の川のよう。当初から国際的視点を意識して製作され、伝承民話の世界に現代的な解釈を取り入れているからか、雪女の姿はどこか移民や難民の問題とも重なるのである。
本作で描かれる問題について個人的には同じ意見・立場であることを大前提に書く。一事が万事、酷い、酷い、と一方的な視点で事例を並べ、あざとい音楽で煽動。自衛隊の言い分や隊員個々の心情が完全に抜け落ち、彼らを単なる悪と断罪してしまっている。もし国や行政が取材に応じなかったのだとしても、それは理由にならない。宗教啓蒙映画のような不気味さを纏うこの映画は、本来は〝正しい〟ことを歪曲させている。三上さん、残念ながらこの手法ではお互いの憎しみしか生まないよ。
そもそもアートとは孤島のようなものである。漫画もまた同様。誰のため、何のために描いているのか?と自問自答し、独り黙々と世間と隔絶された空間で描き続けるのだ。藤子不二雄Ⓐの『まんが道』で印象的だった〝ガリ、ガリ、ガリ〟というペン先の音。その再現が素晴らしい。松浦祐也演じる〝裏切り者ユダ〟のような男は、島の生活によって外見が汚れに汚れている。しかし彼の帰還により、羨望や嫉妬、憎悪といった感情が微かな希望の光へと浄化される終盤は何とも美しいのである。