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極彩色のビジュアルや、神経を尖らせた挑発的な演出は、ペドロ・アルモドバル作品を連想させるが、スタジオ撮影に仕掛けをした二重、三重の破壊的ドラマは園子温監督の面目躍如、この作品が生まれたというだけでも日活ロマンポルノの再起動、大いに意義がある。そういえば園監督は再起動の記者会見で、〝女性の権利と主張は何か〟を考えて作ったと語っていたが、そういったテーマ(!?)よりも女優力と映像のパワーの方が先行しているのが私には嬉しい。特に筒井真理子が素晴しい。
手にバットを持った〝くもマン〟の登場がアイデア。おデコにタラコ色の脳をくっつけた嫌味なゆるキャラ。入院中の主人公にしか見えず、ベッドの周りをウロウロする。生臭い自虐的な話が、この〝くもマン〟のおかげでビシッとし、反面教師的に主人公の再起を促して……。困った主人公を始め、どの人物にも悪意がないのもムズムズした笑いを生み、マジメさからおかしみを引き出す演出に好感が持てる。主人公役、脳みそ夫の受けの演技も節度があり、ナサケないけど憎めない。笑った。
サバイバル・ドラマと見せかけて、実は家族のリーダーとしての父親の復権劇、と見せかけて、実は高次元での現代人批判--。いや、これはチト大袈裟だが、矢口監督がこれまでにない野心(!)とスケールで、家族4人による先へ先へのドミノ倒し的冒険を描き、その意欲が嬉しい。反面、突っ込みどころの多さもかつてなく、ご都合主義的なエピソードもハンパじゃない。それもこれも観客へのサービス精神なのだろうが、電気が復活しての終盤に、もう一つ、ひねりがあったらなァ。
石川県の中能登町が町制10周年記念事業として製作したというこの作品、言っちゃあなんだが、個人が自費出版した私家版の映画化のよう。むろん個人が自分の人生や家族の歴史を描いた私家本にも普遍的な内容のものはあると思うが、一青姉妹の母親の人生を描いたこの作品、母親役・河合美智子の柄と演技のせいもあるのだろうが、箇条書きのような脚本とそれをなぞるだけの凡庸な演出は、ホームビデオの域を出ない。ま、登場する台湾料理は確かにおいしそうだが、それっきりでは……。
勢いばかりで最後は放り投げている。キリスト教的なものや家族関係からくる抑圧とそこからの解放が女性の淪落とメンヘラ的大暴れに仮託される。相変わらずの園子温節だが、冨手麻妙が叫ぶ、ポルノ=反体制のイメージやそこに安住する男たちへの批判には、それらを良きものとするときに高をくくっていた部分をグッサリ刺された(とはいえ釜ヶ崎の路傍で、ウチ、なんや逆らいたいねん、と呟いた芹明香の輝きはいささかも色褪せないが)。あと筒井真理子さんが脱いだ衝撃&感動。
高校の頃ソープに行っていた自分にとっては風俗店でイッた瞬間に倒れたことを家族に知られたくないドタバタとは品が良すぎ、話も小さく感じたが、可笑しさと魅力も感じた。男性登場人物全員が主人公の隠蔽援護にまわるのに共感。柳英里紗が可愛いが、当たり嬢だとしてもまた風俗嬢役をしていて心配。一応死線をくぐった主人公は「エクソシスト3」(RIP、W・P・ブラッティ!)の如き病院空間の不穏さを感じとり、「ヘルブレイン」の脳男(B・モーズリー)と化した。
監督へのインタビューをやったが(キネ旬前号に掲載)かなり失敗したのでもはや何も言うことはない(インタビュアーに抜擢されたのは担当編集者が私のトレッキング好き自転車好き、駅待合室泊・野宿による厳冬期東北青春18きっぷ放浪経験を知っているためだがそれは記事に活きていない)。ある分野での主人公らの熟達を描くことが多かった矢口映画が、電気消失という設定によってハウツーを超え、現代人都会人がいわば〝電畜〟であることをも描いたことは非常に興味深い。
私は一青姉妹と同年代だが、この映画が描く思い出の味のような、生々しい体験と記憶による家族文化の継承を持たない。ばらけた家庭と故郷喪失が多い現在、そういう人も少なくないはず。んなもん知るかという態度で過ごしてきたが、まかり間違って家族など持つと妻と子に伝えるものがないことに、なんかすいませ~ん、という気持ちになるのも事実。そういうことに気づかされる映画だ。河合美智子が良い貫禄だった。あと中能登と台南のエキストラのひとたちの存在感に見入った。
繰り返しになるが、このリブートプロジェクトは〈ロマンポルノ大喜利〉として「今回の5作品内で相対的に評価すべき」というのが個人的見解。そういう意味で本作には『悲愴に乱れる』といった趣もある。予算や濡れ場といった〈大喜利〉に対して、監督の姿勢ははっきりしている。性的暗喩を導く悪夢的な映像美には、逆転・堂々巡り・入れ子の構造といった園子温の過去作品との共通点があり、赤・青・黄の三色を基調とした室内の色彩が裸体と対比され、光が〝影〟をも生み出している。
実体験を基にしたエッセータッチの漫画を映像化する場合、原作を尊重すればするほど、どうしてもモノローグに頼らざるを得ない。いわば説明的になりがちなのだが、本作ではこれらエピソードの積み重ねが、映画終盤に活かされている。原作漫画のコマを使って、走馬灯のように物語がプレイバックされるのだが、1秒にも満たない其々のコマを観客が認識できるようになっているのも一興。それは各々のエピソードを忠実に描いているからで、観客の〝記憶〟を信用した演出の表れでもある。
東日本大震災は「〝不便を愛でる〟きっかけになったはずだった」と個人的に考えている。例えば東京では、街の灯が消え、節電が促された。しかし喉元を過ぎればなんとやら。あっという間に我々の生活は元に戻り、それどころか更なる浪費が進んでいる感は否めない。本作は現代の寓話である。それゆえ過剰に描かれている部分も確かにある。しかし震災から6年を迎えた我々、特に都会に住む人々が再考すべきことを今一度思い出させてくれる。この映画の〝笑い〟は、戒めでもあるからだ。
一青窈の「窈」は〝「ようちょう」と打たないとパソコンで変換されない〟と、かつて御本人が仰っていたことがある。その〈周囲の誰とも異なる〉名前であることが、奇しくもこの物語のオリジナリティに反映されている「妙」。そして、料理は味だけでなく、音によっても思い出を呼び覚ますという「妙」。存命で現役の著名人を描く作品は海外に多いが、日本では意外と少ない印象がある。そういう意味でも、国境を越えた一青一家の人生が如何にドラマチックであったのかを悟らせるのだ。