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劇中で演奏される音楽は、沖縄の曲だけではなく、クラシックからブルースまで幅広い。人物や場所もさまざま。が常に目の前には青い海があり、風が流れている。音楽の上手、ヘタはともかく、目で〝聴き〟、耳で〝観る〟感じはとびきりだ。不純な音に過剰に反応する島の少女と、よそ者の演奏家、安藤サクラの関係が「0・5ミリ」的なのもニヤリとさせる。沖縄の特殊性よりも少女の特殊性の方が強い作品だが、それ以上に音楽。新藤風監督はむろん、伊東蒼も安藤サクラもアッパレだ。
ロケ地の屋久島が太っ腹。登場する役場の職員たちは、無気力で不機嫌なヒロイン以下、ほとんど役立たず、大ポカをしてもズルズルとなし崩し。上からでも下からでもない脇から目線のユルユルした感じは、背伸びや見栄え、ありきたりの感動とも無縁で、脚本、監督の坂下雄一郎、なかなか達者である。東京からやってきた10人のメンバーのキャラもいかにものイメージで、演奏のヘタさかげんもキャラにピッタリ。ヒロインがダメ上司との不倫にケリをつける以外、全く成長しないのもいい。
いささかよそよそしい「惑う」というタイトルに〝戸惑う〟。大河ドラマを数分でまとめたような父親の半生と、〝幸せな家庭というものを知らない〟という、父の心の声にも〝戸惑い〟を覚える。父は恩師から塾を引き継ぎ、やがて家族を持つのだが、物語のメインは父親が急逝したあとの母親と2人の娘の話なのに、何やらグズグズと歯切れがワルく、その演出にも〝戸惑う〟。終盤にこの家族の秘密が明かされるが、これがまた、新派芝居ふうな美談。家とか昭和とかもいまいちおざなり。
〝仏作って魂入れず〟のことわざではないが、〝恋妻家〟なる言葉を作って、中身は脳天気な夫の空騒ぎ、こんな他愛ない脚本をよくもまァ、映画にしたもんだ。ひょっとしたら、製作にも名を連ねているあの電通側に、ドラマの人気脚本家の監督デビュー、のちのちのためにハナシはヤワでも協力を、ナンテ思惑が……!? 夫が料理教室に通う中学教師で、そこでの井戸端会議も、悩みを抱えた生徒のエピソードも実に薄っぺらで、『暗夜行路』と離婚届けの組み合せも、作者は鼻高々だろうが噴飯物。
米軍機の音に少女が耳を塞ぐ冒頭を観て、「ロシア52人虐殺犯/チカチーロ」「殺人の追憶」が圧政下で連続殺人が等閑に付される様を描いた如くもっと政治的隠喩の映画かと思ったが違った(そうであってもよかったが)。沖縄の風土と文化が映画被写体としてのヤバいのは、人間の幸福が本来は実に単純で、近代文明も国家も政治もその邪魔だと映ってしまうためだ。慶良間の少女の音感がその象徴のように西洋音楽に反駁するとも妄想(期待)した。いや、もっと現実的な、宥和の物語。
中西美帆演じる役場のおねーちゃんが上司とデキてる設定が、その男の叱責をかわすためにセックスを差し出したようにも見え、これは日本社会で横行する醜関係の例として価値がある。失敗の後もまずは隠蔽や責任転嫁に懸命なこと、偽者たちが小市慢太郎に異様に崇拝されるスリル(潜入捜査ものに通じる要素)などは面白い。ついでに登場人物が数人死ぬ、或いはもっと執拗に過激に笑わせるべく仕掛けてもよい気がしたがまあほどほどで。ひどい話だが明朗、ポジティヴ。屋久島も素敵。
映画全体が時間を行き来するような構成で、そのことで主人公ら家族の秘密を小出しにしてゆくというのは、根本的にそういう話であり、そういう語り方以外に仕方がないからのような気もするが、もっと現在形の、いまこの事態が誰の予測もつかず起きている、それが実況され目撃されているという錯覚を抱かせるようなありかたのほうがやはり映画として強いのではないかと思い、微妙に芯を外し続けてる感じのまま観た。俳優個々の演技は変ではなかった。作り手の作為が見えすぎか。
映画全体にそれほど大きな影響を与えない一挿話で、アベちゃんをラブホに誘う菅野美穂がチラ見せした白桃のような胸乳が網膜に心地よく灼かれた。それはともかく、ヒッチコックの「スミス夫妻」を連想したりしつつ、横溢する好ましい遊びを楽しんだ。エンディングも好き。パッと思いつく前例は「時をかける少女」とか「ジャッキー・ブラウン」「40歳の童貞男」「私の優しくない先輩」、要するに登場人物がラストシーンの続きのまま歌うのだが、これもっとみんなやればいいのに。
開始早々、この映画がどこかおかしいと感じるのは、季節が夏であるにもかかわらず、少女の耳にイヤーマフがあるからである。その理由が沖縄を舞台にしていることに関係しているのはすぐに判るのだが、さらに重要な点は「少女が音に過敏である」という設定にある。「音を合わせる」ことは〈平和〉のメタファーとなり、それが「人の音を聴かなければ合わない」=「人の話に耳を傾ける」ことを象徴させている。それゆえ少女は、映画の終盤でイヤーマフを外さなければならないのである。
データ集計というルーティンワークに辟易とするヒロインの首は、常にほんのわずかだけ傾いている。それは、平凡な人生に疑問を感じているからだけでなく、疑惑の楽団との共犯関係を体現させているようにも見える。そのヒロインを演じた中西美帆の無表情で終止不機嫌な眼差しがキャラ立ちしているように、坂下雄一郎監督は群像劇を得意とする。そのことは「映画が面白ければスターは必要ない」とも思わせ、「12人の優しい日本人」(91)の出会いと同じ感覚を呼び寄せるのである。
映画における〈雨〉は、往々にして〝悲しみ〟を表すことが多い。だが本作では、登場人物其々の〝ある決意〟を導く場面で〈雨〉が降っている。川や水路で横移動のショットがあるように、〈水〉は行動原理を象徴するものであることが窺える。デジタル撮影が主流となる中、スーパー16で撮影されているが、地方で資金調達する作品の方がフィルム撮影に拘れるという逆転現象も一興。因みに本作の中西美帆も、登場人物の背景を感じさせる演技アプローチでキャラクターを魅力的にしている。
問題を抱えながらも妄想が先走り、なかなか本音で問いただせないという主人公の姿。この映画は「言いたいことが言えなくなってきている」傾向にある、現代日本そのものを描いているようにも見える。「不満はないけれど不安はある」という台詞が示すように、本作では軋轢を避けないことも提言してみせている。終盤では「言いたいことを言う」ことで、夫婦関係が修復されてゆくように見えるが、実は「もともと壊れてもいなかった」という点もまた現代日本の抱える病理とどこか似ている。