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〝時のカケラ〟に〝時の谷〟、まんま「時をかける少女」たち――。が、思春期の少女が5人とは多すぎる。それぞれキャラは異なるし、役割も違うのだが、5人の声優サンたちのアニメ声がこちらの脳天をなでまわし、途中から頭痛が。少女キャラとアニメ声はセットになっているのだろうが、〝時〟をテーマにしたストーリーは決してワルくないのにアニメ声の洪水でアップアップ。それと終盤、みんなで揃ってダンスってどーよ。少女たちよ、踊らない自由も。〝同位体〟のデザインも幼稚。
デタラメ。悪ノリ。悪ふざけ。ファッションも美術も小道具も前作よりド派手だし、しかも股間ネタのオンパレード。けれどもここまで好き勝手をやられると、観ているこちらまでトコトン付き合う気に。三池監督の常識外のパワーと、非常識なサービス精神に白旗ってワケである。紙芝居仕立ての場面や妄想など、手抜きとバカ丁寧、のバランスも小気味良く、さしずめ三池監督の掌で遊ぶの図。残念だったのはミュージカル場面がラスト以外、無かったこと。「愛と誠」が恋しくなったり。
市井に生きる夫婦や人々に焦点を当てれば、どんな人にでもドラマや生き方へのこだわりが見えて当然。その人生が普遍的である必要もない。人は人。他人の生き方を覗いたからって、余程のことがない限り、自分の人生が変わるわけでもないし。老いた建築家夫婦の記録も、だから、よくここまで自分たちの人生、自分たちの日常を晒す気になったなと、そっちの方に感心したり。ま、確かにシンプルで風通しはいいが、取材する側が妙にこの夫婦の歴史や生き方に肩入れしてるのが嫌み。
亡き母親への思いと父親への不信感。映画で何度も描かれてきたし、これからも描かれるに違いない。幼いときの思い込みを、ずっと引きずってることもよくあること。それにしても、使いふるされた設定を、使いふるされたまま、いや、ぐーんと間延びさせて描く描写の甘さ、ゆるさはハンパじゃない。父親が住所を頼りに娘夫婦の美容院を探す、たったそれだけの場面に延々と時間をかけ、しかもドラマは止まったまま。聞けば〝お蔵出し映画祭2015〟のグランプリ作とか。眠れ、よい子よ。
なるべく婉曲に言えば、美少女が出てくる日本のアニメはほとんど全部エロアニメにしか見えないので気恥ずかしい。こんなそこはかとない何かを見せられるよりはいっそ実写のヌードや絡みを見たいと思ってしまう。……私が変態で、妄想が過ぎるのだろうか。でもアニメの女の子は無意味に蟲惑的デザインだと思うがなあ。本作、ダンス場面に躍動はないが、話は面白かった。陸上選手の子が頑張るのが良かった。広末涼子も中学時代は高知県で土佐弁しゃべりながら走り高跳びしてた。
CG、VFXの発達が哀しいときもある。Vシネ時代の三池作品は人力の苦労で、これはなかなか撮られへんで~という画面を実現していたが、今や大作三池映画のド派手ビジュアルはCG。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」の竹内力の元気玉がこういう形に発展するとは思いもしなかった。山崎貴がモノとして建造困難なものをCGで見せても、へぇーと感心して観るだけだが、三池監督のそれは何かと入れ替わっていったものと感じちゃう。昔話か。本作は、飽きない、勢いある映画だ。
様々な主題を孕むのでどう受け止めるべきか、見終えてぼうっとするが、とりあえず良いものを観たなとは思う、が、それはパッと見の印象である、経済的な意味ではなく豊かな(まあ年金もすごくもらってるのだが)老後生活とスローライフ礼賛みたいなものとも完全には一致せず、彼らの生活を、裏切られ続けた理想(の都市・生活空間設計)ゆえの、抗議としての、後半生まるごと懸けた優美な座り込みと解したとき、ようやく本作から受けた感銘を納得できる。価値ある、良い記録映画。
小西真奈美ってすごく黒目がちで耳が立ってる。黒目は、あなたを真正面からすごく見てますよ、お耳は、よく聞いてますよ、を示し、そういうサブリミナルが魅力になっている独特美人。そんな彼女と疎遠な父が石橋蓮司。キャスティングがいい。物語は監督の実感に由来するそうだが、離婚家庭ゆえに記憶のある年齢以降は数えることが可能なぐらいしか父親に会ってなかったのに、結婚し子どもが生まれたのをきっかけに年一回くらいは父に会うようになった私にも少しはわかる感じ。
本作のクライマックスは、5人の少女たちによるダンス場面。モーションキャプチャーを導入して描かれたキャラクターたちの動きは、妙に生っぽい。それだけでなく、個々の動きの癖や、個々の微妙な動きのズレも表現されていることが窺える。動画で描けば、いくらでも動きを完璧にシンクロさせることが可能であるはずなのに、あえてしていない。このことが、本作で描かれる「個は集団よりも優先されるべきか?」という命題に対する、ある種の回答を示しているようにも思えるのである。
暴力団に潜入捜査中の菊川玲二というキャラクターによって、正体がバレるのか否かという〈サスペンス〉を生み、敵に捕えられ逆さ吊りに遭うという〈スリル〉を生み、ボケをかますことで勘違いをするという一瞬の〈ショック〉を生んでいるように、ヒッチコックの名言にある〈三要素〉を導いていることが窺える。さらに彼がスケベであることによって〈お色気〉という要素まで誘発させ、幕の内弁当的な彩りがある。その菊川を演じる生田斗真の演技の幅の広さには唸るばかりなのである。
第88回アカデミー賞候補作には、1950年代を舞台にした作品が多かったという特徴があった。50年代は、〈サバービア〉と呼ばれる郊外の住宅地が造成され、誰もが同じような暮らしを営むことを好しとした時代だったが、遅れて日本では60年代になって団地が乱立。その流れに抗った建築家の姿が本作にはある。それから半世紀の時が経過し、彼の先見性は間違っていなかったと証明されたが、老後の問題は介在する。そのことに目を背けない本作は、更に深い洞察を提示している。
本作では、母親との思い出が〈良いもの〉として、娘と母親ふたりの姿がひとつの鏡の中に像を作っている。しかし〈忌むべきもの〉とする父親との思い出を象徴するかのように、娘と父親の像はひとつの鏡の中に映り込まない。つまり、娘にとって理想の形は鏡の中にあるのだ。そのこだわりは、鏡だらけの理容室において、娘と父親の姿がひとつの鏡に映り込まない点に表れている。それゆえ娘と父親が和解する終幕で、ひとつの鏡の中にふたりの姿が映し出されるのは必然といえるのである。