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モデルとなった実在の女性医師ニーゼ・ダ・シウヴェイラが1940年代に学んだサウヴァドール医科大学は、男子と女子の比率が157:1だったそうだ。つまり本作は精神科病棟における非人間的治療の横行に抗して患者の尊厳を説くと同時に、自らに対する偏見と妨害を弾劾している。しかし本作の重要さは、マイノリティ擁護のメッセージ性に留まらない点だ。作業療法の実り豊かな治療実績が、コクのある撮影・照明をもって綴られ、映画それじたいも尊厳をもって扱われている。
上半身が魚になった主人公のグロテスクな姿をめぐり、臨床実験を行った製薬会社の邪悪さをえぐり出す風刺喜劇、と言いたいところだが、グロテスクなのは本人以上に彼の自称〝恋人〟、父親、親友、弁護人ら周囲の人間たち。彼らは口角泡を飛ばして言い分をまくし立てるばかりで、モンスター本人はただ立ちすくみ恐縮する。周囲が大きな声でワァワァ主張し、他者は苛立ちと嫌悪の対象でしかない。私は恐怖を感じ、気分が悪くなった。つまり、いささか意図が効き過ぎているのだ。
イオセリアーニの映画は、ジャン・ルノワール的環境が現代に可能なのかについての問いである。その問いは苛酷であると同時に、楽天性と無責任さに包まれる。革命期フランスのギロチン広場、内戦下のジョージア(?)、現代パリ市街が無手勝流にポンと投げ出され、場面と場面が乱反射する。まさかイオセリアーニ映画で爆弾が爆発するとは予想しなかったが、これも彼の考える現代的ルノワール性の一例かと。彼の映画は私たちの平凡な生活にボヘミアン的一撃を加えてくれる。
一歩間違えると能天気な獣姦ポルノにもなる題材を、ドイツ的と断定してよいかはともかく、とにかく生真面目にアイデンティティ危機の寓話として物語る。作者の姿勢は生硬だが、逆にその生硬さによって性的欲望の変化が、まるでカルテのごとく生々しく見る者に伝わってくる。素晴らしいのは、映画の表現法までがヒロインと共に成長していくこと。前半ではカット毎にこれは孤独を示す、これは職場の殺伐さを示すという等号に留まったが、後半は画面が流動化し、多元化していく。
〝精神は身体と同様に自己治癒力を持つ〟というユングの言葉に頷き、実践する女性医師を描いて。この映画、日本製ドキュメンタリー「幸福は日々の中に。」と同じ匂いがする。精神病者にも感情があり、感性がある。それをここでは美術創作を通して描き。女をはさんで二人の男。その片方が嫉妬に焦れる、そこを無言のカットで見せた、この監督の記録映画タッチ。試みが周囲に理解されぬ女性医師の悔しさが観てるこちらにも乗り移り。男性医師がいかにも悪役風なのがこの作品の小さな不満。
下半身が魚ならロマンティック・コメディになるが、上半身が魚だとホラーになる。さて、こちらの魚男は風刺劇。貧乏フリーターが製薬会社の臨床実験の結果、突然変異――なんていう事情は、わが日本の現実と重なって見え。大衆の同情が集まり人気者になるが、すぐさま立場が逆転、石もて追われる身となる――てな展開も、ポピュリズムやマスコミ報道などを批判してピリッ。ただ、お話も人物描写もパターンというか、型にはまった味気なさを感じる。そこが食い足りなくて。残念。
相変わらずのイオセリアーニ・タッチ。パリに住む爺さん二人が喧嘩したり仲直りしたり。その間を風変わりな人々が出たり入ったり。話はあってなきが如し。そのスケッチ的コントを気楽に眺めて。ただ、お年を召したせいか、ちと演出の筆遣いがおぼつかなかったり、平板な箇所があったり。導入のフランス革命、続く(架空の)戦場の挿話は面白いけど、本筋との繋がりがよく見えなくて。そのへん、現在のジョージアの事情を投影しているのかも。ま、この監督の味を楽しんだことは確か。
おとなしく地味目の存在の女性が公園で狼に遭遇。捕獲して、自分の部屋で飼育する。彼女はやがて野生に目ざめ――てな話がホラー調じゃなく、大マジメに展開されて。ちょっとトンガったタッチなんで、惹きつけられるが、次第に頭の中でこねくりまわしたような脚本・演出に思えて。結局、その獣性を発揮するのが、つまんない上司に対してのみ、というのが物足りない。その程度の変化だったんだと、尻つぼみの印象。狼との性交を暗示する描写とか、けっこう刺激的な場面はあるんだけど。
ブラジルの精神科医ニーゼ・ダ・シウヴェイラ。彼女が旧態依然とした医療現場と闘いながら、絵画を介するセラピーを取り入れ、患者たちと向き合う日々を描く。ロボトミー手術が脚光を集めた1940年代、絵筆で根気よく患者の心に近づく治療は奇妙でしかなかったろう。でも、今となってはその姿勢はむしろ受け入れやすい。ニーナ役のグロリア・ピレスの説得力と病院のリアルかつ節度ある描写が、娯楽映画の平易さを備えつつ、患者の複雑な精神に宿る闇と光を確かに炙り出している。
収入を得るために製薬会社の新薬治験に参加し、副作用で魚男に変身した男。行き先のない彼と関わることになる新米TV局記者と恋人の騒動は、思わぬ展開へと進む。無個性で気弱で優しく、競争社会からこぼれ落ちてしまったような魚男。彼は私たち誰の中にも潜む〝ある部分〟かもしれない。ユーモアと社会風刺の効いたテイストが絶妙だが、最後をファンタジーにしてしまったのが惜しい。それでも、欠点も魅力に見えるキャラクターたちは忘れがたく、心に大切にしまっておきたい作品。
イオセリアーニ、若返ったのではないか? 何よりもまずそんな意表を突いた衝撃が走る。しばらく彼の作品に漂っていた深い酩酊感が薄まって、「素敵な歌と舟はゆく」(99)の頃の、曲線のように優雅に群像を紡ぐ長回しが、人間にまつわるさまざまなエピソードを魅惑的に浮かび上がらせ、結び、循環させていく。凡人には見えない角度から、彼は日常や世界の真実を照らしてくれる。80歳を過ぎてなお、このタフで緻密で品性があり楽しい作風は一体……。映画作家の闘志に改めてシビレた。
職場と自宅の往復生活を地味に送る若い女性が、近所で一匹のオオカミを見かけたことから、心に野性を目覚めさせる。女性の日常を淡々と描く前半はなかなかよいと思った。が、後半、欲情していく彼女の心理も、置かれた状況もわけがわからなくなる。途中で監督が代わったんじゃないかと思うくらい、タッチも別ものになる。物語は「反撥」(65)に似ている気がしたが、トラウマを描きたかったのだろうか、思わせぶりなモチーフや設定が多くて支離滅裂。主演女優は熱演していたけれど。