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少年マンガ誌連載の青春ラブストーリーの映画化と聞いて、無骨でちょっとひねくれた恋物語を想像したのだが、アララ、限りなく少女マンガ寄りの女子上位劇で、おまけに定番の難病つき。しかも主人公女子は怖いものなしのヴァイオリニストで、相手役男子はうっ屈を抱えたピアニスト、この辺りの芸術まぶしも女子向きだし、自転車に2人乗りをして海沿いの道を疾走するシーンなど、くすぐったいほどキラキラ。でもそれなりに丁寧に演出されていて、キャラでは脇の石井杏奈がいい。
シュールで官能的、しかもどこかガランとした第一級の無自覚的サスペンスである。ラストに流れる井上陽水の歌が、ヒロインを含めた〝現代人〟のカオスの暗示になっているのもみごとで、観終った後の方がゾクゾクする。それにしても山田洋次監督に次ぐ大ベテランの東陽一監督の、クールな感覚的演出にはシビレてしまう。常盤貴子の感情を閉ざしたような演技も素晴しく、彼女につきまとわれる美容師・池松壮亮の突き放さない演技もザワザワと心を打つ。そして世はコトもなし。
ちょっと言葉はワルいが、陰惨な殺人事件を冒頭に置いて描かれる3組の話の、うち2組は〝引っかけ〟である。顔を整形して逃亡中の犯人探し。果して殺人犯は? けれどもバラバラに描かれる3組の話が、それぞれ危うくも巧みに描かれていて、〝引っかけ〟などとは全く意識させないのがみごとである。各人気俳優たちが自分の役に全身で挑んでいるのもスリリングで、中でも妻夫木と綾野のくだり。彼らのパーティー場面などハリウッド映画並。手抜き一切なしの李相日の演出力にタジタジ。
ありゃりゃ。この春公開の日中合作「スイートハート・チョコレート」の同工異曲じゃないの。あちらは北海道の夕張、こちらは沖縄の石垣島、どちらも心臓移植を巡る因縁話。緑と青空がいっぱいの開放的な島の風景は気持ちはいいが、脚本も演出も実に薄ボンヤリして締まりがなく、しかもあと出しジャンケンふう。東京からやってきた桜庭ななみのヒロイン演技も何やらグズグズしていて、心臓が云々より頭が鈍そう。監督が石垣島のファンらしいのは分かるが、困った日韓合作デス。
「ちはやふる」では許せたものが何でこれでは許せないのか不思議。西武鉄道を日常で利用するのでかつてずっと流れていたアニメのスポットやこの印象的な題名だけ見ていて、何だろうと思っていたが、こういう物語こういうコンテンツだったのか。やっと知った。こんな自分のような感度の鈍い人間がこういうものを観ちゃいけないと思う。観る資格がない。理解もできない。最近は難病ものを観ると、んなこと知るか、早よ死ね、などと思う。いけないことだ。申し訳ない。
素晴らしい。世代的な感覚? みたいなものが至極しっくりきた。携帯やメールが生の半ばに現れた世代の、今の世間の人間の距離感って変じゃない? という感じが伝わる。ストーカーだって近年に発生したものだ。これらを、あるある感ではなく現代への批評としたい。モニカ・ヴィッティの如き常盤貴子と神経症のジャッキー・チェンのような勝村政信(夫婦メールの場面が良い)、好かれ電波発生機池松壮亮ほかキャスト皆が良い。興味深い内容。見応えがあった。
良くない映画だ。映画において役者が固有の姿を持って出演するということが原作の可能性を減じている。平然と一人三役をやり、それが別人キャラであることを観客に了解させれば面白いが。あと、殺人者である(と思った)からその人物を捨てるという登場人物らの振る舞いと、それを自ら疑わぬことは卑しい。また、殺人者の怒りも単に狂気に落としこまれた。それはダメ。「悪人」のほうがまだマシ。★ではなく怒怒怒。本作の出来に対する腹立たしさ。(水澤紳吾は最高だった)
美しい石垣島の風景。行ってみたくなりました。桜庭ななみは得体の知れぬ可愛さ。割りと情報量が少なくのんびりした感じの映画なので観てる最中に頭がぐるんぐるん回り、これは『牡丹燈籠』のような幽霊話なのかと序盤にわかってからは、もっと呪いや邪悪さ、死者の生者に対する妬みなどがドバッと出るのかな、いやいやそういう映画じゃないか、でも本当はこれはもっと怖く、イヤな話なのでは、などと思っていた。あと、沖縄で幽霊ものというのは何かハマるなあ、などとも。
主人公たちが青春を謳歌する姿の遠方に江ノ島が見える。近くて遠いそのランドマークは、まるで〝かをり〟の存在のようである。見えているのに手が届かない、そんな感じなのだ。彼女はもともと近くにいたのに、〝公生〟はその存在に気付いていなかった。だから、いなくなって初めて気付かなかったことに気付くのである。江ノ島もまた、いつもそこにあるけれど、気が付くと遠く離れている。離れてしまったのは自分の方だったのかも知れない、と悟るのは、ずっと後になってからなのだ。
冬の寒空の下、ひとりワインを嗜む常盤貴子。彼女の姿は優雅だけど、どこかおかしい。それは〝静かに狂っている〟感じなのだ。そのことと同様に、常磐貴子の演じた小夜子には〝悪意〟がなく、だからこそ純粋なる〝悪〟にも見える。本作は同じ場面を〈視点の違い〉によって反復することで、見方によって見え方が違うことを提示している。よって、確かに〝狂っている〟のに〝静かに狂っている〟ようにしか見えないのだ。それゆえ、いっけん万事解決にも見える終幕へ戦慄するのである。
「真犯人は誰なのか?」ということは、本作において重要度が低い。むしろ真犯人の判明によって或ることを炙り出そうとしている。劇中番組に登場する容疑者のモンタージュ写真。その顔は、綾野剛、松山ケンイチ、森山未來、どの顔にも似ている。このこと自体が観客をミスリードしてゆく訳だが、同時に「人は外見でしか判断しない」ということも示唆している。それはつまり、劇中の人々が抱える疑念だけでなく「この映画を観ているあなたもそうではないか?」と断罪しているのである。
本作には〈黄色〉が点在している。例えば、願い事を書いた黄色い手紙、桜庭ななみの帽子に飾られたワンポイントの向日葵。大塚寧々演じる優しい母親は時々黄色の衣裳を纏っている。〈黄色〉は幸福の象徴のように全篇を彩り、軒先の干された黄色いTシャツには、御丁寧に「HAPPY」とまで書かれている。その〝存在〟を見つけた者だけが、幸福に近づけると描いた所以である。だからこそ、台詞の向こう側に流れる風や波の音という〝存在〟が、語られる言葉より重要だとも思えるのだ。