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煙りにまかれたような……。但し、この煙りの正体は、人物たちがひっきりなしに吹かしているタバコだから、すぐに空中に散ってしまうのだが、タバコとセットになった他愛ないお喋りやありふれた蘊蓄も同時にスーッと消えてしまい、この作品の影の薄さは何なんだ。そのくせ人物たちは全員、妙に上機嫌でしょっ中、酒を飲んでいる。風景と暇な人々とお喋りと酒、タバコ。場面はあってもドラマはなく、観ているこちらは、彼らの何一つ共有できずにただボンヤリ。仲間内のお仲間映画。
そういえばひと頃、女は子宮で考える、子宮で動く、などというアホな言葉をよく耳にしたが、アララ、主人公の園子がまさにそんな女で、しかもカビ臭い。ま、時代設定は遥か半世紀以上前、家とか、親が決めた結婚とか、カビ臭いのは仕方がないが、夫や周囲の人々を見下すようにして、頭でっかちならぬ、子宮でっかちな行動をとる園子の唯我独尊ぶりは、演じる村川絵梨の全裸演技をもってしても説得力に欠け、ただの未熟な女のご乱行。原作の虫干し的映画化なのだった。
「夢は牛のお医者さん」「ふたりの桃源郷」など、長期取材をしたテレビドキュメンタリーには、そこらの劇映画など足元にも及ばない親近感がある。取材対象者の成長やその変化が歳月を早送りして編集され、しかもカメラがその人たちの人生のある種の〝見守り〟的な役目も果たしている。特に本作はそれが顕著で、トラさん夫婦とその子どもたちは、定期的にカメラに撮られることで、ずっと家族という関係で行動し、反抗はしても逃げられない。それだけに、もしトラさん家にカメラが入らなかったら、とも思う。
CGによる各キャラクターたちの造型や表情、動きがチャーミング。毛並、色艶もちょっと触りたくなるくらい。けれども原作が児童書だからか、ストーリーが小学生レベルで、ノラ猫たちも妙におとなしい。飼い主と遠く離れてしまったチビの黒猫と、体のデカい地域猫とのコンビは確かに絵になるが、もっとノラ猫たちの数を増やし、猫たちを通して人間界にもの申してほしかった。比べるワケではないが、米アニメ「ペット」の毒気とパワーと遊びがあまりに強烈だったので、つい不満が。
必見の素晴らしく変な映画で、素晴らしい映画。出演の鈴木卓爾と長宗我部陽子によって、ある種の遊びやルーズさを重要な要素にしている鈴木卓爾監督作や今岡信治監督作にも繋がる。また、脚本を書き、出演もしている山形育弘は鎮西尚一監督作品「ring my bell」にも出演しておりこちらへの親和も感じられる。本作は新たな星でありながら鎮西、鈴木、今岡作品、ほかにも常本琢招、七里圭の作品と結んでみると、日本映画の新たな星図を描く、最強の最高の後出しミッシングリンクだ。
何かの哲学、主義、体験の記憶など、そういう関数的なものが、世界を表現や作品に変容せしめる。子宮。いいではないか。至急導入すべきネタだ。主演村川絵梨はふっくらした頬に筋張った手をしててどんなオッパイかと思ったら美しい乳房でした。そのヒロインの、精神とは関係なく肉体のみが感じてしまう描写が良い。その、自律する子宮性、本人をも裏切るものが彼女の行動原理である面白さ。それは映画だ。カットも鮮やか。だが毬谷友子こそが登場人物中で最もエロかった疑惑もあり。
昔からテレビで人気の大家族ものドキュメンタリーにはどこか珍奇さがあるものだが、このトラさん一家はそうではない。世間に出たときにきちんとできる人を育てるという感覚がちゃんとある。本作はその部分が撮れている。あの教育への信念は見習いたい。トラさんが七人目の子をもうけた年齢でいま自分は子が一人、もうこれ以上子を持てないし、この子が独りでもやっていけるようになるまでまだ先は長い。犬塚虎夫氏も家族みんなもすごい。無名の、しかし偉大な家族史の映像記録。
声の演技が良い。猫の毛一本一本までも見せる3DCGアニメのパワー、良い筋立てにもかなりグッときたが、磯田勉氏がツイッターに書いた、これが伴淳三郎なら「ルドルフとイッペエヤッカ」、を目にして以来、酔っ払った伴淳がおとなしい黒猫にからんで困らせる図しか思い浮かばなくなって困る。まあ本質的にはそのような、世間知らずを世知のほうに差し招く物語。「北国の帝王」ほど苛烈ではなく。ベテラン野良猫イッパイアッテナには、てめえ差し詰めインテリだな、と言いたい。
舞台は夏である。夏であるから軒先の窓は開けっ放しになっている。だがそれは「夏だから」という理由だけではない。本作で〈半径数メートル〉の狭い世界で暮らす若者たちは、不思議と外の世界と繋がっているような印象を与える。窓が開いていることで、常に窓の向こう側が画面の中に映り込んでいるからである。劇中歌は「セカイ」と歌い、幽霊は「外へ飛び出して」と語りかける。それでも彼らが窓の向こう側へと飛び出さない姿は、我々の社会が抱える或る問題と近似していないか。
昭和20年、蟬の声、終戦、と、冒頭からヒロインの暮らす時代や季節を表現しているが、本作には〈実景〉が伴っていない。どうやら〈時の経過〉を描くことに対して興味がないようなのだ。それは「性愛をじっくり描く」という理由からではない。劇中「其の子は自由な精神の女」とヒロインを評する台詞がある。彼女の精神が解放された時、〈実景〉の伴わないこの映画の中で、川辺や湖畔など〈広がりのある実景〉が挿入される。つまり〈実景〉こそが、彼女の精神を表しているのである。
本作は「人間の本来あるべき姿は、島の暮らしの中にある」というステレオタイプなメッセージを発する類いの作品ではない。特殊な家族像を撮り始めたはずが、結果的に普遍的な家族像を描くに至った作品なのである。親も子も其々が葛藤し、その葛藤は次の世代にも引き継がれてゆく。それは継承のあり方だけでなく、人が成長し変化してゆかねばならないことをも悟らせる。自らが親になって初めて気付く親の気持ち。奇しくもそれは〈死〉=〈不在〉の後を描いているからこそ悟るのである。
猫視点で猫の世界を描いた本作は、当然、目線の高さも低い。我々が日頃目にする見慣れた生活風景が、別の〈目線〉=〈視点〉で描かれている所以である。そして現代を舞台としながらも、本作にはどこか懐かしさを感じさせる。例えば、電柱、下水の蓋、夕刻を知らせる放送など。それらは、今の社会で失われつつあるものとして点在させている。また「半径数メートルが人生のすべて」というペットの実態を描くことで、人間の人生のあり方の是非をも批評してみせているように思わせるのだ。