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映画史的な知識としては知っていた筈の話でも、こうして生身の役者たちによって熱を込めて演じられると、あらためて事実の重みに震撼せざるを得ない。トランボ役のブライアン・クランストンが素晴らしい。クレジットを見るまでわからなかった妻のダイアン・レインも。信念を貫くとは如何なることかを黙々と丁寧に描いた監督の誠実さにも惜しみない賞讃を送りたい。こんなに胸が熱くなった映画は久しぶり。しかしこれを見てますますコーエン兄弟が何を考えてるのかわからなくなった。
なんてヒドい日本語タイトル笑! 原題は“While We're Young”。大好きな「ライフ・アクアティック」の脚本家ノア・バームバック。評判の良い「イカとクジラ」は観てないのだけれど、ポスト・ウディ・アレンと評されるのは非常によくわかる知的でスノビッシュなヒューマン・コメディに仕上がっている。人物設定と会話のくすぐりだけで持たせるセンスは卓越しているが、ちょっと地味過ぎるかもなあ。こうしたジェネレーション・ギャップは日本にもあるが、映画にはならないだろうね。
どんな映画か全く知らずに観てしまったのだが、すぐわかりました。最初の方は「イマドキ映像表現がうざいなあ」と思って脳内で「★★」を付けていたものの、ヒロインの孤独な闘いが始まってから次第に盛り上がってきて「★★★」になった。シンプルなストーリーゆえ、あとはひたすらアイデア勝負になるしかないのだけど、特に斬新なわけでもないのに、クライマックスに向かうにつれて、明らかに強度が増してゆく。監督ジャウマ・コレット=セラの腕は確かだと思う。観終わってみれば、
原題はアンドレ・ブルトン『狂気の愛』の末尾の一言。ここまで渋いタイトルにしなくてもいいのにと思うが、むしろこの方がヒットするのかも。「冬の小鳥」は観ていないのだが、ウニー・ルコント監督のタッチは繊細さと頑固さが共存しており、さりげなく動くカメラも悪くない。もっとドラマチックに出来るところも抑制が効いている。理学療法の場面も良い。好きなタイプの映画ではないが、こういう母娘ものは日本では受けるだろう。最後の朗読は唐突だが、これを言いたかったのだろう。
裸でバスタブに浸かりながら執筆するトランボの姿が強烈だ。電話も灰皿もすべてその中から手の届くところにある。バスルームが彼の書斎だった。それが生前のトランボのスタイルを再現したカットであることは、後に出てくる本人の写真が物語っているが、フィクションとしては口惜しいほどにビジュアル映えすると同時に、長らく日の目を見ることができなかった彼の苦境が、ユーモラスな味わいの後からじわじわと染みてくる。ジョン・グッドマンの振り切れた好演も感動レベル。
文科系ベン・スティラーの真骨頂! コメディもいいけど、何といっても「リアリティ・バイツ」の監督なのだから、バームバックとの相性は抜群だ。中身の未熟を実年齢に無理やり合わせるのではなく、自分の中の子供を認めることで大人になる。そのためには親になる既成事実よりも先に、それを望むか否かの意志が尊重されているわけで、そこにたおやかな反骨の精神を感じる。若者世代のアダム・ドライバーの憎たらしさがまた最高で、斜めに流した前髪だけでもムカつく(褒め言葉)。
「ゴシップ・ガール」ではハイブランドの服に高級マンションでセレブ三昧だったライヴリーが、水着一枚で岩肌にへばりついていれば、必然的にショーとしての価値が生まれる。その意味でこれは「ブレイク・ライヴリー」という女優を、海のオリに閉じ込めてサメと戦わせ観賞する徹底的な見せものである。しかし彼女は好奇の視線に食い潰されない奮闘を見せた。女性一人のサバイバル劇における肉体の重要性は「ゼロ・グラビティ」のサンドラ・ブロックも証明した通りである。
子供を養子に出した母親が匿名を希望する場合にはそれぞれの事情があると思う。しかし子供が自分を探していると知って名前を公開するのは、果たして誰のためなのだろうか。知りたい子供、知りたい親、さらに知らせたいという親の思いが加われば、当事者同士の望むことは合致するはずなのに、理屈通りにはいかないところに逆に真実味がある。理学療法士であるヒロインは、情報よりも先に、直接肌に触れるという手がかりを得るが、漂う予感が確信に変わるまでの不確かさが美しい。
ハリウッドの赤狩りという歴史的政治的事件を、一作家の家庭に絞って描くという意図は成功している。最後にトランボ本人が終始支えてくれた家族、特に娘に対し述べる謝辞は感動的だ。彼らの団結に大きな亀裂を与えた、カザンやオデッツ、ドミトリクの証言には触れず、友好的証人として、ジョン・ウェインとE・G・ロビンソンしか出さないのは、いささか疑問だが、赤狩りの問題は今後もなお語られるべきで、このような作品が作られるアメリカ映画界の土壌には敬意を表する。
助成金を頼りにインディ系のドキュメンタリーを撮っている四十代の監督夫妻と映画監督を目ざす二十代の夫婦の交流がコミカルかつシリアスに描かれる。世代論、芸術論を織りまぜた才気のあるタッチは軽快で面白くウディ・アレンの再来と評されるのも納得できる。ベン・スティラー快演。この手の主人公たち、わが国なら親が資産家でもない限り「極貧」と決まっているが(「お盆の弟」)、それなりにファッショナブルなニューヨークの生活を楽しんでいるのは、国情の違いか?
「ジョーズ」は集団パニック映画だが、こちらはサメと人間、それも水着の美女との一対一の死闘だ。撮影技術は「ジョーズ」より洗練されている。サメがいきなり現われるシーンはショッキングだ。サメが執拗に彼女を狙うのは敵愾心なのか食欲なのか? サメにそんな習性があるのか、すでに三人食っているから満腹のはずだなどという疑問は見ている間は全く浮かばなかった。潮の満ち引きという卓抜なアイディアが十分生きていないのは残念だが、良く出来たワン・シチュエーション映画だ。
「自分探し」というのは嫌いな言葉だが、生みの親を知りたいと思うことは自分を知りたいことに他ならない。韓国の孤児院で育ち、九歳で養女となりフランスへ渡ったルコント監督の切実なテーマだ。デビュー作「冬の小鳥」のあの孤児院の少女がこの映画の監督なのだと言う思いが観ている間頭から離れなかった。理学療法士であるヒロインが、やっとめぐりあった母親の贅肉の塊のような裸身を抱きしめて治療を施すシーンは、幼児に戻った親子のスキンシップを観るごとくで感涙。