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〝南部美人〟の五代目蔵元のチャレンジ精神に頭が下がる。日本酒に魅せられ、杜氏となったイギリス人も、日本酒伝道師(!?)のアメリカ人も、ビジネスということだけではない、日本酒と共に生きるという姿勢が感じられ気持ちがいい。取材範囲も幅広く、アメリカで日本酒造りをはじめている男性の取材など、伝統や文化等の畏まった姿勢とは無縁で面白い。とは言え、こちらがビールを2センチ飲むのがやっと、というクチのせいか、このドキュも日本酒業界の変わり種のPRレポートの印象も。
321人という無機質な数ではない、1人1人、家族がいて友達や先生がいて、それぞれの人格を持っていた旧制の広島二中の子どもたち。薄暗いスタジオに置かれたいくつもの木箱は、さしずめお棺の模型か。それにしても原爆投下による阿鼻叫喚的なシーンは一切ないのに、このスタジオをベースにして紹介される1人ずつの遺影と氏名、ささやかなエピソードは、粛然とするほどリアルに心に迫る。綾瀬はるかの余白のある淡々とした語りも、想像力を喚起させ、関係者への取材も余韻を残す。
〝なまはげ〟役の方に星一つを差し上げたい。あんなにデカくて重そうな冠りものに全身、藁やら何やらのナマハゲ・コスチューム。そんな姿で走ったり、跳んだりのおとぼけ演技、ゆるキャラどころか、重キャラもいいところ。ま、それはともかく、脚本も演出も実にデタラメ、不細工なのに、どこかくすぐったいような愛嬌があり、ロード・ムービー仕立てというのもアッパレ。CGとは無縁のオール手造り感も、こちらの郷愁を誘うものがある。新井監督、ずっとおバカな映画をよろしく!!
このセルフ・ドキュメンタリーには葬儀のシーンはないが、家族の冠婚葬祭で積年のわだかまりが解消することはよくある話で、ひょっとしたら岡本監督、兄の結婚話をきっかけに、家族にカメラを向けるようになったのか。離婚した両親。祖母。父親と断絶中の兄。カメラを向ける監督は、妙に嬉しそうな声でよく笑い、映される家族たちも、兄以外はテンションが高い。いや兄の言動にしても、監督である妹にある種、迎合している節も窺える。撮影・編集は達者だが、みんな映されたいのね。
構成や情報の盛り込み方などがとてもよく出来ていて、日本酒についての知識があまりなくても面白く観ることができるように作られていると思う。僕は体質的に全然アルコールを受けつけない下戸なんで、日本酒を飲むという体験もほとんどないが、尾瀬あきらの漫画『夏子の酒』(これはほとんど、酒の国のナウシカ、とでも言える異色の酒醸造漫画)とか、『美味しんぼ』の日本酒にまつわるエピソードなんかを読むたびに自分が飲めないことが悔しかったが、本作もまたそう思わせた。
綾瀬はるかは〝海ゆかば〟のアクセントや幾つかの語の切り方が気になるが、清潔さ(のイメージ)を持ち、この企画に相応しい。おーい広島二中のみんな、はるかおねえさんが見えるかー、これは君らに供えられたスピリチュアルなグラビアだぞー。本作のルーツ、松山善三・杉村春子版『碑』は未見だが、この版はそこでは優るかも。選挙番組では辛辣の権化である池上彰が本作で生存者に対するときなんと柔和なことか。オバマ広島訪問にあった表層化に抗う作品。その意図に賛同する。
なまはげが実在する天然記念物の生きものだったら、という仮定のなかに、なまはげが呼ばわる〝悪い子はいねえかー〟の叫びの対象となる悪い子、やんちゃで親の言うことを聞かない子もまた、現代において希少な存在ではないかという問いが潜ませてある。それが本作のなまはげと少年の絆の芯となっている。日本映画っぽくないギャグセンス、ふざけ方は好きだ。サタデーナイトライブ系のコメディアンがつくる米国製コメディー映画の方向ではないだろうか。この志向、継続して欲しい。本作もまたそう思わせた。
ホームビデオの延長だ。だがそれが悪いことだとは思えない。こういうものが増えてもいい。軽便なキャメラがダイレクトシネマやヌーヴェルヴァーグを産み、ハンディカムがアダルトビデオを変えたように、機材の変化によって映像とそれを観ることの感性は変わっていくべきだ。本作は撮ることの機材的な容易さが招く緩やかさのなかに、それを非難できなくする、光る瞬間を持つ。兄の顔は父に似ており、家族全員の音楽に対する反応がまた似ている。家族とは反復、甘美な呪い。その記録。
土着的な印象のある日本酒を描いた本作に、どこか都会的な印象を持つのは、メトロポリタンな旋律のフュージョンを音楽に採用しているからである。映画冒頭で語られる「酒と非日本食を合わせること」は、本作で描かれる「外国人が酒蔵に関ってゆくこと」と同じ側面を持っているように思える。そもそもビールだって外来〝酒〟だったではないか。そのことは、本来〈映画を批評する側〉を生業とする小西未来監督が、〈映画を製作する側〉という異業種に挑む姿とも重なってゆくのである。
昨今の〈不謹慎狩り〉なるものは、事象に対して直接関係ない第三者の声が大きいのではないか? と指摘されている。本作では広島の原爆から生き残った人々の声も綴られてゆくのだが、彼らの多くは「なぜ自分だけが生き残ったのか?」という苦悩を抱えている。ここには〈不謹慎狩り〉に対するひとつの答えがある。我々は世の不幸を全て受け入れることは出来ないが、それでも生きてゆかねばならない。それゆえ、綾瀬はるかのバックグラウンドを鑑みて、彼女が朗読する意味をも見出すのだ。
「悪い子はいねがー」と子どもたちに迫る〝なまはげ〟は、表情もなく、同じ台詞を繰り返す。しかし、包丁を持って主人公を追いかける姿は、映画冒頭と終盤で異なる意味を持っているように見える。それは、映画全体を通して〈モンタージュ〉を構成しているからである。〝なまはげ〟=〝希少動物〟が現代の「悪い子」と行動を共にするうち次第に同化してゆくのは、〈感動の動物映画〉の物語構造を持たせているからで、現代社会において「悪い子」のあり方が変化しているからでもある。
厳しい〈現実〉から目を逸らし、受け入れたくないがために、相手に対して冷たくしてしまうことがある。当然、〈現実〉は何も変わらない。本作はビデオカメラというフィルターを通すことで〈現実〉と対峙する監督の姿を、観客は監督の「眼」=「ビデオカメラ」で〈見る〉行為によって共有してゆく。同時に過去の家族ビデオ映像が記憶や思い出の役割を担い、観客は監督の人生を追体験し〈現実〉を考えてゆく。つまり〈見る〉行為が、やがてある結末を導いてゆくことは必然なのである。