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こちらの誤解かもしれないが、性暴力の被害者を逆美化したような内容と演出がどうも納得出来ない。傷口に塩をこすりつけるようにウツウツと自分を責めるピアノ教師。その割にこの教師、自分のマンションではドタバタと足音を響かせて動き回り、演出の注意力が散漫。靴のカットが多いのも意味があるような、ないような。ピアノ教師を犯した写真屋が、自分の娘まで犯していたという設定も、被害者の2倍増ふうでいささか引いてしまう。題材に溺れすぎているのが残念だ。
主人公の熱さが熱い映画になるとは限らない。しかもファンキー加藤がヤカマしく演じている熱血漢は、歌も人に聴かせるレベル以下、これで町おこしのヒーローとは、説得力もない。むろん、誰かのガムシャラな行動が、諦めムードを打ち破るという話は現実にもアリだし、あってほしいが、高いのはテンションだけで中身はスカスカではね。でもこの映画の完成には意義がある。ロケ地となった地域の映画作りを方々の支援と協力。きっとお祭りふうに楽しんで……えっコリた!?
小ギレイな風景と等身大ふうの人物たち。偶然の出会いとささやかなエピソード。観ているこちらは最後まで手持ち無沙汰で、何やら小さなローカル駅でなかなかやって来ない電車を延々と待っているような、もどかしい気分。そういえば本の世界ではライトノベル(ラノベ)が人気だそうだが、それをマネて言えば、本作や「植物図鑑」のようなスケッチ風の映画は、ライトシネマ(ラシネ)とでも言うのかも。薄い話をここまでゆるく長篇化した脚本家たちと監督に逆にカンシンも。
笑っちゃうほど不快で気色がワルいホラー・サスペンスである。黒沢清監督らしからぬスタンドプレイが目立つ、グロを全面に押し出した演出。実際に何度か笑ったりも。例えば主人公夫婦が飼っている犬の扱い。きっと怪しい隣人の香川照之が……。が、これが肩すかしで、ついニヤニヤ。ま、これなんかはカワイイほうの笑いで、終盤は悪趣味、大芝居に対する爆笑、そうか、黒沢監督は観客サービスもできる人なんだ。で思った。西島秀俊の役と香川の役を入れ替えてほしかったなと。
ロマンポルノ「天使のはらわた」シリーズや洋画の「発情アニマル」などが自分にとってのレイプのイメージ。また、生活体験のなかではピンク映画館薔薇族映画館に観に行ったりバイトしたりした時に男色系の人にセクシャル対象として見られ、痴漢され、そこから女性はこういう苦難が日常なのかと心に刻んだが、たしかに本作はそれと矛盾せず、文句もないものの、人物の行動の極端さが問題の間口を狭めた疑いもある。ジャンル映画の方向の普遍と苛烈があればと思う。
ポジティブであるということに逆らいがたい力があるということが描かれていて、これは恐ろしいことですよ。単調さを良い話であることで観客に呑ませようとする甘さがあって、それはかつての清水宏や森﨑東の映画、根本敬のルポに登場する人物のように善意や熱意が一種の狂気だというタフな世界観を持てれば払拭できたと思う。ギャグも近く本欄で紹介する予定の「野生のなまはげ」のほうが洗練されてる。いいセックスをしそうな主演ファンキー加藤の壮健さは良かった。
もう、良い話や心温まる話が多すぎて飽き飽きしてむしろこちらの気持ちは荒廃しているのだが、なんか本作は良かった。意外と若い女の話であるのと同時に中年男の話だった。年が離れていても女と男であれば常にそこに性的なものがあるのも真理だが、もっと綾と抑制のある父性的な関わりもあると思う。まともなオッサンを演じうる光石研、小林薫が居たおかげでそのことが出せた。手ブレ撮影に疑問も持ったがラストで死者の目線、見守りと了解。撮影花村也寸志、○。
「岸辺の旅」よりこういうひどいもののほうが観て楽しい! 90年代の黒沢清ジャンル映画量産時代に円熟を経て回帰したかのよう。カットの質と方向性が昔と違う。元々揺らいでいたが、今回はアメリカ映画から離れた印象。本作の陰惨さは世界に在りうる邪悪を示していてこういう映画を観ることでこちらは死なずに生きることができるなあと思う。西島香川の組み合わせが絶妙。格好良いアホの男と格好よくない邪智の男の奇妙な闘い。そして竹内結子のエロス。満足。
「日常の生活音が聞こえて来る」ということは、「周囲が気になっている」ということである。本作では、本来であれば聞こえて来ないような生活音の音声レベルを上げることで、気にならないはずの音が徐々に耳障りとなる。やがて、舗道を歩く靴音はもちろん、蝉の声や呼び鈴の音、シャワーの音までが耳障りな〈暴力〉となってゆくのである。それらが、ヒロインの内なる叫びを代弁するだけでなく、佐藤乃莉・石橋宇輪、異なるふたつの陰鬱たる眼力によって我々の心を掻き乱してゆくのだ。
サブイボマスクの頬に光るブルーのライン、それは〈涙〉である。人の悲しみを引き受けることで笑顔を与える。そのことを主人公は「自分が笑顔でなければ相手は笑わない」と語る。本作で描かれることは〈綺麗事〉ばかりだが、それは全て正しい。そして地方振興のあり方とその問題点も丁寧に描いている。町おこしが応急処置であってはならないからこそ、地方にまつわるキーワードの嵐が吹き荒れ、〈綺麗事〉で済まない点も否めない。それでも本作は「やるしかない!」と思わせるのだ。
夏美はワイドレンズを使って写真を撮っている。それゆえ、被写体とはある一定の距離を置くことで、その場の出来事を一枚の広い画で切り取っている。そして夏美の撮る写真と同じように、この映画のカメラは引きの画でフレームの中の出来事をワンカットで見せようと試みている。夏美がフィルム撮影にこだわるように、小林薫演じる仏師はやり直しのきかない一木造にこだわる。同じように、この映画のカメラもワンカットにこだわる。それが、本作における〈長回し〉の由縁に思えるのだ。
黒沢清の映画には、ときおり風が吹いている。その風は目に見えないはずなのに、カーテンの揺れなどで視覚化される。本来であれば爽やかな風であるべきものが、目に見えないものを視覚化したと解釈することで不穏さが生まれる。そこに低音のノイズが乗り、歪な住宅地が〝顔〟となり、其れらが堆積して映画全体を不穏さが包み込む。不穏と感じるのは、役者の怪しげな表情や台詞の不思議な間によるものだけではない。誰もが観たかった黒沢清が帰ってきた、唯々そのことに歓喜。