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人々の生活風景は小さな部分から次第に変っていき、気がついたときには時代が変っていた。それは新しい「スター・ウォーズ」の映画を観ても感じたが(この比較を笑って下さい)、これは瀬戸内海をのぞむ牡蠣工場の日常をじっくり追って描くなかで、仕事場の状況が変っていくさまをとらえていく。牡蠣むきは女性のほうが巧みなのはあせらないからで、この映画も長さが重要なのだ。見終ってこの作品の主役は白い猫だと思うのは、この猫が人間たちを尻目に自分を貫いているからだ。
「スモーク」で私をとりこにしたW・ワン監督は、何年も前にマカオに住む私の友人のロシア人の画家を訪ね、彼の絵に触発された映画を撮ろうと考えた時期がある。それはまだ実現していないが、日本のリゾート地を舞台にしたこの作品は、プールサイドに並ぶ男と女の姿を示すところから、妄想とも現実ともつかない洗練されたミステリー世界に観る者をひきこんでしまう。男の視線で語られているようで、実はすべてが女性の視線に奪われていたのでは。とりわけ女性描写がすばらしい。
開巻、山岳を走るオートバイの動きに息をのむ。以後、雪山の滑降、スカイダイヴィング、巨大な波に挑むサーフィンなどエクストリーム・スポーツの難度をあげていくグループの特撮なしの描写は文句なしに超一級だ。しかし、たぶんエヴェレストなどの清掃登山で知られる登山家・野口健氏にヒントを得たと思われるこのグループの行動原理があまりに幼稚なので、FBIが彼らを追うストーリーの深味のなさにいらだってくるかもしれない。危険スポーツの場面に限れば最高作なのだけれど。
この映画の試写では笑い声も起きていたが、こんな恐ろしい映画は近ごろ初めてだと感じていた私は、とても笑えなかった。自分の音痴に無自覚で歌い続けるこのヒロインは、勝手な文章を書いていい気になっているような自分に重なるのではないかと、冷や水を浴びせられた思い。一九四〇年代に実在したアメリカの〈歌手〉を一九二〇年代のフランスに置きかえたこの映画のなかで、彼女に黙って仕え、最後までその写真を撮り続ける執事役のデニス・ムプンガの演技が最も心に残る。
瀬戸内海にのぞむ岡山の町・牛窓。牡蠣の産地。この地に数週間入り込み、カメラを回す想田和弘が、人々の暮らしの中からグローバル化、少子高齢化、過疎化、震災など、いまが抱える問題を浮かび上がらせる。印象としては、意外と華やいだ作品なのだ。それは、カメラを持って問いかける監督の存在が、被写体となる人々に何らかの刺激を与えていて、その時間は彼らにとって少し特別なハレの日常になっているからじゃないだろうか。登場する人々が妙に魅力的。監督のフィクションも観たい。
西島秀俊演じる作家は、「アンジェリカの微笑み」の、ファインダー越しに横たわる美女に魅入られた写真家のように、内省的な迷宮に誘われるも、最後は正反対のところに着地する(が、どちらもハッピーエンド)、とは私の一解釈。少し遠くから、薄い皮膜を通して見える世界のなんと官能的なことか。覗きの死臭。この危険な快楽を、確信犯的に、知的なゲームとして楽しみたい大人のためのアート映画。カメラの中の眠る女を、慈しんで見つめるビートたけしの佇まいと表情が新鮮だった。
FBI捜査官候補の青年が、行き過ぎた資本主義社会に抵抗して大胆な強盗を繰り返すアスリート集団に潜入。彼らと友情を築きながらも、捜査官として信じる道を貫いていく。犯罪シーンとなるエクストリーム・スポーツのアクションが、臨場感満点というより漫画っぽくてびっくり。一方、文明と自然を対立させる物語の構図は結構深刻なものがある。2つの価値観の狭間で葛藤する主人公の揺らぎが、まだ色のついていない若手俳優ルーク・ブレイシーの定まらなさと重なってリアルだった。
ヘタうまというのは、時に、説明を超えた魅力に富む。本作はそんな才能で人気を博した実在のオペラ歌手をモデルにしているというが、背景は違うし、夫婦愛が裏テーマにあるので、別ものととらえた方がよいだろう。主人公の絶妙な音痴具合、演じるカトリーヌ・フロの何とも言えない無垢と貫禄と謎めいた味わいが素晴らしい。それにしても、自分の実力を正確に認知する方が難しいのだ。人畜無害な人間の勘違いとは罪なのだろうか。ラストの真実の突きつけ方はひどく残酷に思えた。
夢中になって見ていた。瀬戸内の冬を呼吸するような編集のリズムがとてもよい。小さな漁港から移民労働や震災復興といったニッポンの現在が浮き彫りになる構成だが、想田監督の作品歴ではおそらくテーマに対してもっともひかえめな作品で、そのことがほどよく観客の想像力を刺戟してくれる。合衆国の病巣をえぐり出すワイズマンの犀利な「観察」とは異なる、独自のやわらかい観察眼がもっともよくあらわれた一作だと思う。すばしこい子どもたちと白猫シロちゃんの活躍がいたって愉快。
サッパリよくわからなかったのだが、眠っていたのはスクリーン上の女であって評者ではない。俳優たちのアンサンブルのよさが出る前に上映時間を使い果たしており、エロくもフェチくもなければ、狂気など小指の爪ほども感じない。ひんやりとした剃刀でおくれ毛を剃られる忽那汐里のうなじ、だけがややよかった。西島秀俊はむしろ欲望を欠いた人物を演じたときにもっともすばらしい瞬間があると思う。書けない作家と撮り続ける男の話だったら、同じ監督の「スモーク」のほうが断然よい。
「エベレスト3D」のときも書いたけれど、CGの全面的活用に対する反動がハリウッドで確実に起きていて、人間の生身の躍動を見せるものが目立ってきている。数かずのアクションはたしかにすごいのだけど、それはアスリートたちがすごいのであって作品がすごいのではないだろう。たとえば本作よりも「ワイルド・スピード」のほうが面白いとするなら、ここでもう一度問う必要がある、「CGではなぜいけないのか?」と。そうした問いを惹起させるかぎりで重要な作品である。
にくめない有産階級者の大音痴をおおらかに笑いとばすカーニバル的喜劇かと思いきや、刃の切っ先をもてあそぶような残酷譚である。無垢な存在を前にした人間の悪意についての映画だと気づかされた。喜劇的からの鋭角な急展開はこの作品そのものの「悪意」でもある。合衆国の実在人物に着想しながら、頽廃と人間不信の二〇年代フランスに舞台を置き換えた感性が冴えている。主人公の歌声がもつ秩序破壊的な力をもてはやす前衛詩人、あのモデルは明らかにトリスタン・ツァラ。