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映画で小説のような章だてで語られていくこの作家の著書は、60年代にややきわもの的あつかいで邦訳が出ていたようだが私は読んでいない。このような骨身を削って自伝的小説を書いていた人だったとは。彼女をずっと支えてきた作家ボーヴォワールのこれまで知られていなかった側面、出版社のガリマールなどフランス文壇をめぐる人間模様も活写されるなど、多くを学んだ。主人公の人生に南仏の風景が重要な役割を果たしたことにはこの映画ならではの描写が生きる。主演女優ふたりが出色。
駆けだしているようなせわしない音楽が全篇を流れるこの映画は、泣いて自殺しようとする女とそれを止めようとしない男の街頭の場面から始まる。これは女性を演じるアリエル・ホームズの実体験『ニューヨークの狂った恋』を描いた内容だとは驚くが、この新人女優を見ているだけで最後まで併走させられてしまう魅力の持ち主である。ドラッグにひたって疾走する彼女をとりまく若い男女の青春群像の結末は、まるで嵐の去った後の晴れた空のようなさわやかさを感じてしまうほどだ。
映画の舞台であるティンブクトゥの名は、私が一九五〇年代に読んだ『ドナルド・ダッグ』のコミックブックに、どこかとんでもなく遠い未知の地を意味することばとして出てきたものだ。それが西アフリカのマリ共和国の砂漠のような街の名であると、美しい実景とともに私を覚醒させてくれたこの映画は、イスラム過激派支配下で日常が侵されていく人びとの〈現実〉を、静かななまなましさと誌的ですらある映像を積み重ねて描いていく。人びとの心の叫びが深く重層的に響いてくる。必見作。
幻想的できらびやかな東洋式絵巻ものをじっくりとひろげていくような映画。この世は仙界・魔界・人間界の三界で出来ていて、すべてを統べる魔晶石をめぐって争う という基本設定は気にせずに、むしろ雪の女王のような妖女と、仙人の意を受けて魔界を滅ぼす使命を負った火焔男の超人との破滅にむかうであろう華麗な術合戦のラブストーリーとして楽しめばいい。VFXを駆使したスペクタクル映像に包みこまれて酔う感覚にひたりこむべし。
書くことで自分を見つめ、書くことで人生をまっとうしたフランスの女性作家ヴィオレット・ルデュック。1907年、私生児として生まれた彼女は、この事実をコンプレックスに生きていたが、やがて自らの生い立ちや性を小説に綴ることに目覚めていく。ボーヴォワールとの出会いが、彼女を人として、作家として鍛え上げる。このふたりの、ある意味壮絶な関係性が厳しく深く感動的。自分に向き合うことから逃げなかったヴィオレットの泥臭い強さに圧倒される。E・ドゥヴォスが好演。
ニューヨークの路上で暮らすガール&ボーイの破滅的な生活。う~ん、ピカレスクものは、その破天荒さや痛みの中に、ロマンとは言わないまでも、何かこちらの心を打つものがないとつまらない。映画として魅力がないのだ。ヒロインを演じた女優の過去の実体験が基になっているというが、後日、彼女は映画で日の目を見るほど這い上がったのだから、〝よくなりたい〟という普通の思いを軸にした再生ドラマにしてもよかったのでは? 社会派的な視点もないし、罵りだけぶつけられても不快。
西アフリカ、マリ共和国。人々の穏やかな暮らしの中に、イスラム過激派が入り込み、街はいつしか兵士たちの作った法によって恐怖に覆われていく。イスラム世界で起こっている現実を、これだけ繊細に、生活に根づく視点から描いている映画は、珍しいのではないか。報道からは見えない、内側の、土着の風景が切り取られている。また、リアリズムと詩情が柔らかく溶け合う作風とリズムも独特で魅惑的だ。アブデラマン・シサコ監督の名前は憶えておきたい。今の時代を知る上でも必見。
ピーター・ジャクソンのVFXスタジオと組んで、視覚効果満載、スペクタクルに描いた、中=香=米の合作による歴史ファンタジー大作。天界、魔界、人間界の3界が、エネルギーの宿る魔晶石を巡って死闘を繰り広げる。物語のスケールはもちろんのこと、ヴィジュアルの華やかさと濃さもなかなかのもの。主役のチェン・クンと、リー・ビンビンの美しさは一見の価値あり。実写とC Gの融合は難しいなと思いつつ、エンタメならではの贅の限りを尽くした味わいをたっぷり楽しめる。
サルトルは知識人の政治参加を説いたが、女たちにとって書くことは実存を懸けた闘いだった。赤いカーディガン、手いっぱいの花束、膝上に抱えたノート。わたしはこんなふうにしか生きられないのよ、とあらゆる細部が告げている。奥行きのある画面に注意ぶかく人物を配置するイヴ・カープのカメラがすばらしく、ふたりの女性作家の対比をあざやかに浮かびあがらせている。エマニュエル・ドゥヴォスは、いつも作品のなかでほんとうに生きて、呼吸をしているようである。
評者が一〇代のころ、つまり九〇年代後半にはこんな映画がごろごろあった。この作品はたとえば「KIDS」(95)の焼き直しのようなもので、当時は鮮烈だったテーマも手法も、いまではまるでインパクトをもたない。またタイトルも劇判にあてた既成曲のセレクトもたいへん恥ずかしく、残念ながらセンスがない。監督のサフディ兄弟が評者と同世代であるのは案の定というほかないが、とりあえずこれだけは云っておこう。いいかい兄弟、もうハーモニー・コリンやドグマ95は忘れるんだ!
静かな映画である。ジハード主義者の実質的統治によって、音楽もサッカーも禁じられた生活の重苦しさを、この作品は声を荒げることなく記述している。暴力の恐怖(テロル)をセンセーショナルに描くことは、むしろテロリストの思うつぼであり、そうした表現は慎重に避けられている。それよりも、過激派ひとりひとりを顔と声、さらには良心をもった人物として造形することで、問題の根源へとせまるこの映画のアプローチは重要である。ボールのないサッカーに創発的な抵抗の一端を見た。
中国・香港・アメリカとの合作ではあるが、現代中国の資本力と技術力を誇示するために製作された経済プロパガンダである。と断じてしまいそうになるできばえ。タイトルからすでに不安でたまらないわけだが、どこかで見たような断片をパッチワークしたストーリーが空疎なら、全篇を蔽うVFXの用法も全然ぱっとしない。リー・ビンビンの御尊顔もCGに糊塗されてなかなか拝見できないようでは楽しみがない。そろそろ大陸からマイケル・ベイみたいな切れ者が出てきてよいころである。