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72年に初めてバルセロナを訪ねた私は、ホテル・ガウディに泊り、ガウディの建築を見てまわったが、当時ガウディの名は日本でそれほど一般的ではなかった。20年後の92年に再訪したときは、グエル公園の上に囲いができていたが、今は入場料をとるという。サグラダ・ファミリアは教会なので、映画ではその宗教的な意味や理念が主に語られるのは当然だが、この未完の建造物のメタボリズム生命体のようなふしぎさや完成をめざすための技術的な工夫などを、もっと知りたかった。
「私が新作を撮ると知って中国も興味を示したが、脚本を見せたらすぐ手を引いたよ」とマフマルバル監督が香港で語ったこの映画を私は二度見たが、ヨハン・シュトラウスの曲が流れる開巻の街の夜景からひきこまれてしまう。ジョージアで撮影された独裁者の官邸の横のほうにわざと傾いたような白い建物が移動ショットで映るのがずっと気になっている。現地に行って見てみたいほどだ。従軍慰安婦問題すらも含むと言えそうなこの現代の切実な寓話にはユーモアもある。傑作。また見たい。
アイスランド映画では、しばしば小さなコミュニティが舞台となる。村の人たちは互いに親しいが、逆に仲がこじれると長く反目する関係にもなりやすいらしい。ここでは伝染病にかかった羊をめぐり、女のいない男たちふたりの兄弟の確執が描かれる。いつもながら風土と人間のいとなみが、世界の縮図のように感じられてくる。多くの羊が出てくるが、最後のクレジットにsheep in chief(羊のチーフ)として五頭の羊の名が出る。つまり、映画俳優と羊たちが同等のあつかいなのに感心した。
往年のハリウッド映画へのノスタルジアに満ちたボグダノヴィッチ節健在のこのコメディーが気分よく見られるのは、悪人がひとりも登場せず、ひょんなはずみで舞台にひっぱられるコールガール(新人のイモージェン・プーツが出色)以外は、浮気性の舞台演出家にしろ脚本家などすべてが裕福な連中で、高級ホテルやレストランでおなじみの鉢あわせで散財しても痛くもかゆくもないからだ。映画マニアがうんちくを語りやすいようなおまけ映像まで最後に出る。ニューヨークの街頭描写がいい。
1882年に着工され、創始者アントニオ・ガウディの死後も、そしていまなお未完の建築物である、スペインの大聖堂サグラダ・ファミリア。その歴史を辿り、現場スタッフを取材し、また外観、内部を映し出し壮大なプロジェクトの創造過程を追う。1世紀以上にわたる変遷は複雑だ。ガウディの天才にまず驚嘆し、多くの困難を乗り越え、これを死守してきたバルセロナ文化に感動する。が、時代は変わる。関係者の考えもそれぞれ。移りゆくアートや宗教の未来に思いを巡らせてみたくなる。
舞台は、独裁政権下にある架空の国。クーデターが起こり、独裁者と小さな孫は逃亡し海に向かう。独裁者は道中で初めて自らの政権が招いた国民の惨状と怒りを目の当たりにする。ロードムービー的な展開で、ハプニングとサスペンスがうまく仕掛けられている。力の論理がすべての、暴力の荒野のような土地に見える男と女の壮絶な姿。そんな人間の根っこをえぐりながら、独裁、復讐、負の連鎖の本質に近づいていく。一方、孫の描写が生む寓話性が出色。踊る孫の優美に何より救われる。
アイスランドの村に暮らす、羊飼いの老兄弟。隣同士に住みながら、40年間絶縁していた彼らが、羊の運命を左右する事件を機に大きな秘密を共有する。なぜこの兄弟が仲違いしているのか、はっきりとはわからない。だが、どうにも疎遠であるという距離感が、些細な、かつユーモラスな描写から少しずつ伝わり、緩やかにこの映画の世界観が育まれていく。性格は異なるが、やはり似ている血の濃さが、クライマックスに向けて切なく迫る。山を駆ける羊の群れの画に無垢な美しさを感じた。
コールガールからハリウッドスターに上りつめた若い女優。彼女の成功譚を彩る舞台人らユニークな人々の恋と執着を洒落たタッチで描いたコメディーだ。70年代の匂いがしつつ、携帯もパソコンも登場する現代が舞台。恋のドタバタは、ウディ・アレンを思わせるが、アレンは良くも悪くも軽薄さが魅力で、こちらピーター・ボグダノヴィッチは情が深そう。惚れっぽさが生む創造力。映画はこういう色気がなくなるとおしまいかもしれない。この遺産を受けとめた中年世代の俳優・製作陣にも拍手。
オーソドックスなインタビュー・ドキュメンタリーながら、とてもよくまとまっている。「サグラダ・ファミリア」というこの途方もないプロジェクトは、いまはいない鬼才と、図面を引き継いだ建築家や彫刻家との対話そのものなのだと知らされた。ファサードを手がけた日本人彫刻家の、そのたたずまいやことばの奥ゆかしさ。近代化も戦争も生き抜いてきた、神秘の尖塔群から見えてくるカタルーニャがある。それにしても、自分が生きているうちに完成のめどがつくとは思わなかった。
目下革命後のさらなる混乱状態にあるアラブ各国を想起せずには見られない映画である。その意味では「神々のたそがれ」(アレクセイ・ゲルマン)と姉妹のような作品だと思う。どちらも架空の国の寓話のようでありながら、むしろそれゆえに現実の政治へのするどい喚起力をもっている。既存の犯罪逃避行ものに形式を得ながら、結末に約束された死(カタルシス)をかぎりなく引き延ばし、問い返すところに、このフィルムの暴力への批判的提言と映画的な野心の両方がゆるぎなくある。
エクソダス、という語がおもわずうかんだ。もっとも愚鈍な動物とされる羊たちの、山をはるかにめざして踏みしめる一歩に胸を衝かれた。思わぬレッテルを貼られて迫害をうけ、移動を余儀なくされる羊たちの物語は、人類史のあらゆる悲劇のメタファーではないのか。血統の延命に奔走する兄弟が、彼ら自身の血の存在に気づかされてゆくのは、だからすこしもふしぎではない。「Rams(羊たち)」という簡潔な英題に同時に示されているのは、まさにこの迷える老年の兄弟のことであるだろう。
女と男と電話だけでできた映画である。洗練されたシーンの数かずにおもわずうなる(電話といえばフリッツ・ラングだが、ボグダノヴィッチはさすがラングに取材して一冊上梓しているだけある)。どこまでもウェルメイドに徹する姿勢は、スタジオ時代を知る映画人の矜持さえ感じさせてくれる。どんなに込み入った話も90分で語り終える技術こそが、古典映画の遺産であることをそうしてたしかめた。ウェス・アンダーソンが紹介したというオーウェン・ウィルソンがたいへんはまっている。