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ヒロインの「わたくし」は現実感を抑制するためにあえて用いたとのことだが、彼女のいでたちからしても、他の言葉づかいからしてもその一人称には疑問が残り、<不自然さ>が逆効果に。佐渡島のロケーションはずっと眺めていたくなるほどに圧巻。だが、その島でカップルが心中した、ということ以外に背景が描かれず、形而上的な言葉の応酬ばかりで肝心の「生まれ変わったら一緒になろうね」も響かない。あの世でもこの世でもない場所における<ある種の現実>には精密さが必要だ。
両親を失った少女の、世界に一人ぼっちになってしまったような感覚、足湯の暖かさや食事の美味しそうなこと、朝日の美しさなど、視覚と聴覚をくすぐる魅力は実写映像化ならでは。ただ、エピソードや、登場人物たちが紡ぐたくさんの言葉、心の移り変わりとがじっくりと積み重ねられていく原作漫画を思うと、作中での台詞も切り貼り、すべてを短く縮めたことにより(仕方がないことだが)テーマが不明瞭なのも否めない。槙生の複雑さと、愛に対する葛藤にもう少し注力してほしかった。
「母性観」をめぐっては女性同士も異なるさまざまな意見があるし、個人的にも母性なるものには懐疑的。「母親でありたい」という願いも、大人のある種のエゴには違いない。本作は嘘を重ねてしまった「母親」に同情するでも突き放すでもなく、キャメラは出来事を静かに追い続けるが、「虐待被害者の児童を安全な場所で護りたい」という(社会で広く共有されるべき)彼女の揺るがない心を、なかば強引だが感動的なかたちで尊び通すのには、涙が出る。杏の素晴らしさはここで書き尽くせない。
異性の浴場に向かって声かけし騒ぐノリなど、高校生にも失礼では? 100歩ゆずって男同士「素直になれよ」系の大喧嘩も、「お姉さんがいうこと聞いてあげる」的台詞も、コミカルな学園ものなら微笑ましいが、こちらは“余命もの”だし、大の大人たちばかりでくすぐったいどころではない。原作は部活を引退したばかりの「空っぽ」な受験生が主人公とのことで、年上の女性への憧ればかりでなく、その喪失感や焦燥にもう少し重点を傾ければ、青春映画の味わいがあったかもしれないが……。
なんだか能のようだと思いながら観ていたら、途中で実際に能役者が出てきて、なるほどと思わされた。要するに、歌舞伎や浄瑠璃によくある男女の道行を現代風の能として描いた映画だと言えるだろうか。作中人物たちがいるのは死後の世界であり、それでいて、佐渡島という現実の土地で物語が展開するため、幻想的でありながら、存在感の伝わる作品になっている。前半はフィックスの画面中心で、後半になるとオートバイが登場してカメラも動き、一種の高揚感が生じてくるのも魅力的だ。
他人またはそれに近い関係の2人が同居することになるという物語は珍しくはないが、この映画の場合、徐々に変化する2人の関係性が丹念に描かれていて心地よい。新垣結衣が槙生役かと当初はやや疑問を感じたが、引きこもり気味でぶっきらぼうでありながらも誠実な小説家をうまく演じているし、朝役の早瀬憩は、その初々しさが槙生といいバランスを生み、高校でのミニライブのシーンにも活かされている。スタッフやキャストの充実した仕事ぶりがそのまま画面に反映しているかのようだ。
認知症の父親、虐待を受け、記憶をなくした少年、この2人が主人公の千紗子を軸にして絡み合い、さらには、山里の風景や古い日本家屋での生活、造形作品の制作といったエピソードが散りばめられた映画は、すべてが丁寧に準備され、撮影され、編集されたという印象をあたえる。だが、その丁寧さがそれぞれの要素をかえって引き離してしまった。しかも、最後に少年が重大な発言をした瞬間、物語のすべてがその言葉に収斂していき、作品にむしろ亀裂が入ってしまったように感じられる。
冒頭の橋の上の出会いとそこで吹く風が魅力的に感じられないのがまずは致命的だが、その後の展開においても画面には力が感じられず、物語も陳腐なエピソードの羅列にとどまっている。主人公と高校時代の友人たちとの関係をもっと描けば、少しは違ったかもしれないが、それ以前にキャスティングに違和感があり、演出にも冴えがない。同じように女性ピアニストが主人公だった昨年のテレビドラマは、大谷監督らしいセンスを感じさせる出来になっていただけに、残念としか言いようがない。
今は博物館になっている金鉱跡に、ふと出現する記憶を欠いた人々。色の名を自身の名とする彼らがその地で過ごす時間を淡々と描くのだが、SF的な設定なのかと思いきや、彼らがそこにいられるのは四十九日という設定で底が割れる。佐渡島での風景、建築は見事であり、出演者も贅沢なのだが、しかしそれは土台となる説話の「部分」に過ぎまい。部分の豪華さに気を取られ、全体のデザインが疎かになっている。「私たちは誰だったのでしょうね」と主人公は最後に言うが、それはこっちの台詞である。
新垣と早瀬の二人が一緒に暮らすことで共に変化するドラマ。ただ、死んだ母=姉がどういう人物かが不明瞭なため、二人が迎える変化の違いが明確な像を結ばない。新垣から見れば、姉は彼女を抑圧した「世間一般」=仮想敵ゆえ、姉との和解とは世間を知り大人になることを意味する。そんな変化は必要だったかの疑問は措き、理解は可能。一方早瀬の視点からすれば母への屈託はない以上、母を嫌った新垣=叔母の視点を通じて母を見ることがもたらした変化がどんなものなのか今一つ判然とせず。
道端で拾った虐待を疑われる少年が記憶喪失という設定、また性格が妙に素直なのも胡散臭いと思っていると案の定。また奥田が彼に渡すナイフも唐突で、何か伏線なのだろうと思うと案の定。ミステリと謳うならばこれら伏線の分かりやすさは難点だろう。また最大の難は、奥田に対する杏の態度の変化が、認知症がどういう病なのかの医者による説明を聞いて起こったり、また少年が自身の口で真相を語るために、さほど必要と思えない裁判劇が最後に設定されたり、総じて言葉に依存している点だ。
地元を振興したいという善意があればどんな映画であっても良いわけではなかろう。映画としてユルユルであれば、むしろその善意は見る者の反感さえ招く。地場産業に関わる兄弟、元カレであるその兄の方を訪ねて訪れたピアニストが死病を得ていたというメロドラマ。物語の通俗性は措き、その通俗性をただの一瞬すらも超え出ることのない演技、ピアニストが書く楽譜に一枚一枚彼女の「想い」が記される説明臭さ、彼女の演奏にフラッシュバックされる過去演出の凡庸にほとほと閉口する。