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あるとき以降、自分の自由意志でアレンの映画を観ることは選択しておらず、疑惑が晴れない限りはこれからもない予定である。是非はともかく、法的に裁かれようと裁かれまいと、作り手自身にまつわる情報は作品の見方にバイアスをかける。特に自画像的な登場人物や自伝的要素を多く盛り込んできたアレンの作風の場合はなおさらで、老年の主人公が漂わせる諦念を笑うこともできず、どんな作品でも人が作っている以上、「芸術に罪はない」を実践することの難しさを実感する経験となった。
これが実質的な復帰作となるファン・ビンビンが、きっちりくたびれた女で帰ってきているところにぐっとくる。さらに『梨泰院クラス』のトランスジェンダー役が好フックとして機能しているイ・ジュヨンとのコラボは、世代や国籍を超えた二人が刹那的に接近するワンナイトの熱さと儚さがエモーショナル。港の荷物検査シーンで、女性が女性の体のラインに沿って金属探知機を滑らせる、出会ったばかりの二人が無言で交わる艶かしい距離感。女性監督がシスターフッドで描くその関係性が美しい。
作家性というのは世相にとらわれないからこそ作家性たりえるのであり、その意味で伝統芸能に近い。本作では女性の自立が寓話的に描かれているが、この題材が寓話で描かれることで最も説得力を持てたのは、おそらく少し前の時代になる。そういう意味ではランティモスの作家性を最優先に楽しむのがベストな見方と言えるだろう。ただそれは、先日SNLで全裸ニューヨーク清掃コントまで披露したエマ・ストーンの思い切った献身なしに成立しなかったのは間違いない。
「クワイエット・プレイス」(18)の設定に「透明人間」(20)の要素を取り入れたような一本。ホラー的な映像表現に関しては脅かしに徹した感があり、ヒロインやその家族の物語を生かしたプレーになっているとは言い難く、両者を連動させる演出の腕が望ましい。ただ、最後のエピローグ的なくだりにはジャンル映画やシリーズものにつながる可能性を持った展開があり、描写の新しさも見られたため、そのシークエンスだけを追求して発展させても面白かったのではないかと思う。
古い名作映画のカットを再現して喜んでるウディ・アレンにつきあわされる映画。映画と女が好きで嫉妬深いじいさんの話。ただし主人公はウディ・アレン当人ほか現実の老いた映画好きたちよりはナルシシズムがまだ薄い。くそじじいが監督した「映画の話をしてる映画」はだいたい面白くない。という感想を女が書けば面白い気がするが、これを書いてる僕は女好きな59歳のナルシストな男で、同族嫌悪というのはしてみてもあまり面白くない。というのがラストカットの主人公の問いへの僕の答え。
中韓ベテラン若手の二大女優W主演で、男の暴力支配に反逆するぎこちないシスターフッドを女性監督が撮る。男が撮った「テルマ&ルイーズ」、性別適合前のMtF監督が撮った「バウンド」(どっちも男である僕には面白かった。えっ、どっちももう30年くらい前なの?)と比べて痛快さはまったくなく、乾いていて重い。いま撮ったら、そりゃそうなる。そこがいい。虐待を受けてる側が陥る依存も描かれてる。母なるものを失ったままの女の物語でもあるのだろう。それでも女と女は出遭って、別れる。
いろんな映画や漫画にいろんなフランケンシュタインの女怪物や、いろんなエマニエル夫人の旅やいろんなフェミニズムが登場したけど、こんな生まれかたのセックスモンスターやこんなフェミニストは見たことない。ランティモス作品でいちばんわかりやすかったが、驚くべきことにわかりやすさが面白さをそこなってない。哀れなる者とは誕生して科学医療のお世話になりセックスしたりしなかったり愛されたり愛されなかったりしつつ死ぬ我々のことだ。エマ・ストーンは市川実日子そっくりだ。
怖い場面は生理的には怖かったけど、なんかよくわかんなかったな……。主人公は事件に巻き込まれる前からある問題を抱えてて、怪異現象との対決でそれと向きあわざるをえなくなる王道パターン。呪いの正体も非常に今日的で、それはいいんだけど、どうにも展開が雑でトラウマの治癒もあっさりしすぎ。ラストには過去の亡霊より現実のほうが怖かった的なドンデン返しを期待したが、それはなく、新しい〇〇が妙に長い尺かけて〇〇したのは完全に蛇足なのでは。それとも続篇の序章だったのか。
#MeToo運動以前から、アレンが少女時代の養女の裸を撮影し、のちに結婚したという、倫理観が問われる問題は知っていた。しかし#MeToo以降に改めて向き合うと、こうした出来事を無視して、映画評を書くことは気が咎める。もはや大人の女性である養女スン・イーの、意思を重んじることも考え得るが。映画自体は近年のアレンの軽妙に人が入り乱れ、ひとまず愛が収まるべき所に落ち着く大人のドラマ。#MeToo以前のロリータ臭は払拭されている分、今の女優に興味はなさそう。
ジン・シャを演じるファン・ビンビンの変わらぬ美しさに陶然としながらも、行き当たりばったりの物語に困惑する。彼女は保安検査場での仕事中に、緑色の髪をしたエキセントリックな少女と出会う。職業柄、本能的に危ういものを感じつつ、その少女に惹かれて一寸先は闇の世界に踏み込んでいく。しかし緑色の少女にもっと飛躍する世界観があれば良かったが、ただ単につまらぬ運び屋で無駄な時間だった。何よりラストが許せない。可愛いチワワを巻き添えにする意味が理解できない。
製作にも名を連ねるエマ・ストーンが、本作で企図したことの明瞭さ、強い意志を考えると胸が打たれる。女性は男性の「俺が教えてやる」という姿勢が嫌いだ。政治的にも、性的にも、知的にも女性は主体性を持って学習し、判断力を身につけていく。そういった女性に恋した男たちは、彼女が思い通りに動かず苛々する。原作と違い、主人公のベラが社会主義をシスターフッド的な関係の女性から学ぶのも、今の時勢に合わせての変更だろう。撮影、音楽、美術のすべてが抜かりなく独創的。
壊れたラジオの中にいる幽霊の話である。勝手に出てくることはなく、壊れたラジオを修理して電流が通ったら現れるという、非常に稀有な霊だ。普通、そんな幽霊は廃品回収とともに消えそうだが、たまたま修理好きの父親が直したから、霊が出てきてしまうという、突飛な条件の霊だった。だったら、また壊して焼くなりすればいいだけじゃないだろうか。幽霊の見せ方の怖さは「回転」や「ヘレディタリー/継承」で学べるのに、編集が粗くぷつっと急に物質的な霊が登場するシーンも興醒め。