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オーディションの場所という理由で、登場人物たちが<自主的に>そこにとどまることを決める密室もの。登場人物が全員役者に加え、山荘での設定もフィクション、かつこれはそもそも映画という、嘘で固められた世界の表面に、奥に触れることに我々は挑むはずだが、疑いにしばられることへの緊迫さに欠けるし、最後の最後までいびつさが物足りない。原作者自身が「突拍子もない」という設定もそうだが、彼らの動機も幼稚な印象が拭えないし、少々無理がある気も。
面白かったので原作も買った。ヤクザが真面目な中学生男子に歌の教えを乞うという斬新な設定が第一、名前や組員たちの選曲、などなど小さなエピソードもそんなわけあるか、というユーモアの積み重ね(組長も、この人かい!という実写化ならではの楽しさ嬉しさ)。映画に付け加えられた学校生活の様子、思春期の葛藤なども大人視点のノスタルジーに浸かりすぎないのがいい。カラッとしつつも一定したチャーミングなトーンを支える、ポーカーフェイスの齋藤潤さんはじめ若手俳優たちに拍手!
男女格差、セックス、愛、家庭、自由恋愛の果て、論じ描いた社会生活の姿、そして国家の犬に殺されるまで、伊藤野枝の短くもすさまじい人生はテーマひとつ、ある期間ひとつを切り取り描いてもむせ返りそうな濃密な映画になると思うが、「風よ、あらしよ」の言葉には追いつかない、単調な人物紹介ドラマの枠にとどまってしまっている。神近市子の刺傷事件も、ホラーめいた演出なのが残念だ。だが、彼女の叫びと言葉に一片でも触れる機会、多くの人に見てもらいたいと思う。
PMSの言葉を知ってどこかほっとした人、薬で改善した人もいれば一向に良くならない人もいて。それでも向き合っていかなければならないと思い悩む女性はたくさんいるし、私もそのひとり。自分の症状により現職を辞めざるを得なかったある2人が勤めることになった同じ職場。彼らが紡ぎ出すシンプルで小さな答えは、これから最も尊ぶべきことの一つだろう。その答えの実践者である、脇を固める人々の温かさもわざとらしさがなく、都会の灯りと手作りの星空に重なる。
作中に本が出てくるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を彷彿とさせる設定であり、大雪で山小屋に閉じ込められた8人を描いたタランティーノの映画「ヘイトフル・エイト」(15)を思い起こさせもする。ところが、今回の映画では「雪の山荘」と言っても雪は空想のものにすぎず、それは集められた7人がすべて役者だからであり、彼らが役者であるからこそ、独特な視点で描かれる山荘の空間のなかで、物語が二転三転する。原作にはない冒頭とラストがいいアクセントになっている。
青春映画にヤクザ映画を足してコメディの要素を引き出したとでも言える、おもしろい味わいの作品になっている。しかし、それが可能になったのは、カラオケ大会で組長を前に歌を披露しなければならないヤクザが、中学生の合唱コンクールを聞きに来た、という設定があってのことだ。要するにシチュエーションコメディとしてのおもしろさを前面に出した作品なのである。だが、山下敦弘監督であれば、そうした特異な状況に頼らずとも、彼ならではのとぼけた味わいを出せたのではあるまいか。
伊藤野枝の人生がいかに苛烈なものであったかは伝わってくるし、胸を打たれもする。それは、物語が持つ力の証でもあるだろう。しかし、映画として見た場合、俳優たちの熱演にもかかわらず、どうしてもダイジェスト版のように感じられてしまう。テレビで3回にわたって放映したドラマの劇場版になるわけだが、劇場用に再編集するのであれば、もっと思い切った編集の仕方もあったのではないか。そうすれば、この作品に欠けている、映画そのもののダイナミズムが出てきたかもしれない。
PMS(月経症候群)に苦しむ女とパニック障害を抱えるようになった男の物語、などと書くと、障害者への偏見をなくすように促す作品だとか、社会のなかに居場所のない男女の恋愛模様を想像してしまうかもしれない。しかし、2人は職場の同僚にすぎず、むしろ違う方向を見ている。それでも互いの障害を理解し、助け合うようになる過程が、淡々と静かに描かれる映画なのである。原作はあるが、映画で付け加えられた要素によって、「夜」がより印象的なものになっている点も魅力的だ。
ある別荘に芝居の候補生が集められ、そこで事件が起こるのでその謎を解けという設定で生活、実際に一人一人と消えてゆくが、これはベタなのかネタなのか。そのドンデンが続いている間は面白く見ていられるとはいえ、終わってみれば、こんな大掛かりな仕掛けを支える動機が貧弱、そこに身障者への失礼があるように感じられて不快、そもそもなぜ重岡の役の人がそこに参加しているのかが分からないなど疑問は次々湧く。終わった後にすべて忘却上等、暇つぶしとしての推理ものの典型。
ヤクザが合唱部の中学生に歌を教えてもらうためカラオケに日参する。こんな無茶苦茶な話が通用するのはコミックの中だけであろう。実写で見るとこれはいかにもキツい。その設定の無理は無理としても、そこを出発点に映画的な何かが生まれるわけでもない。ヤクザといっても怖い顔でガナるだけの表面的な造形、中学生たちもただの人形、また二人の関係が人間的に進展し、新たな様相が現れもしない。映画が所詮暇つぶしに過ぎないにしても、もっと上等な作りの作品に費やしたいものだ。
大杉栄は十代の頃に著作も読み、その思想は現在においても自分の根底を支えているが、伊藤野枝は吉田喜重の映画を通じてその重要性は知りながら親しい存在とは言えず、ゆえに彼女がその無垢、純真なセンチメンタリズムによって却って大杉のうちに潜む無意識な男性性を撃ち、彼を鼓舞したその重要性は不覚にしてほぼ初めて知った。とは言えそれ以上の映画的感興があったかと言えば疑問で、元がNHKのドラマだと言われればなるほどそうだなと言うしかなかったことは確かだ。
弱者同士の連帯という主題の作品が多くなってきているのは、それだけ社会が疲弊しているということなのか、我々の視点が細密化して、これまで見ようとされなかった差異が可視化されてきたということなのか、ともあれ本作もその流れの中にあって、しかしこの種の主題にありがちな殊更な劇化の道を取ることなく、静かに日常を生き延びてゆく同志たちの姿をほのかなユーモアを交えながら淡々と捉えており、映画の姿が上品である。過去から届く光と声が現在を息づかせる辺りにも感動する。