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なんといっても俳優たちの顔だった。この顔の素晴らしさは、揺らぐことがない。彼らは施設や学校で探した演技経験のない子どもたちで、そのキャスティング力にも驚く。映画製作の持つ暴力性がテーマの一つだと思うのだが、撮影における倫理観を問うようなシーンにも、今一つ批評性に欠けるような感じもした。映画に参加することで、子どもたちが得たものがなんだったのか。それは大人たちや社会に認められることだけではなかったはずで、彼ら自身の喜びをもう少し見てみたかった。
古めかしい洋館のようなホテルにやってくる母と娘。何かが起きそうな雰囲気があるが、なかなかその正体は分からない。恐怖の予感だけが日々繰り返されて、小さな謎に耳をすましたり、様式美的なリズムに気持ち良さを感じていたそのとき、一つの結末が訪れた。ティルダ・スウィントンが母と娘の両方の役を演じるが故に、二人が同じカットに映ることはない。しかし、その仕掛けには映画的なギミックだけではない、聖者と死者を隔て、そして繋いでくれるものでもあるモンタージュがあった。
古今東西に存在してきたような降霊術をユニークに描いた作品。若者たちはパーティーでドラッグを楽しむように降霊術にのめり込む。しかし、その過程で自分自身の恐怖と向き合うことになっていく。心霊ものだけど、内的な変化を皮膚の変化で表現したり、体験している側の視点から、外側で見ている人の視点へと移り変わるような、見せ方の工夫が面白い。最後の救いのなさには、本当にぞっとしてしまったし、死後の世界があんなふうに苦しみで満ちているとは思いたくないなと思った。
ケリー・ライカート監督がA24と製作した本作は、A24のイメージを覆すほど渋い映画であり傑作だった。時はアメリカの開拓時代、集落の住人たちはぬかるみの上で暮らし、貧しさと不衛生の中で生きていた。人々に余裕はなくコミュニケーションは簡単なジョークだけ。主人公の二人はこの集落で出会った。彼らに芽生えた友情の美しさ。映画というものは、一つひとつの時間の積み重ねによって、風景の中に感情が生まれ、人々の間に血が通うことを見守るものなんだ、と強く思った。
冒頭、オーディション風景に登場するフランスの小都市の荒廃した地域に住む子供たちの貌は初期のダルデンヌ兄弟の作品の子供たちに似ている。しかしドキュメンタリーの手法を駆使し、さらに映画撮影というシチュエーションを介在させることで、幾重にも〈虚〉と〈実〉の境界を混交させるスタイルは両刃の剣ではないか。作り手たちの〈リアル〉を追求する姿勢が却って対象との関係を曖昧にさせているのだ。ここに欠けているのは大島渚のテーゼ「カメラは加害者である」という視点だと思う。
ティルダ・スウィントンは能面のような無表情を湛えている一方、内面に無尽蔵な激情を秘めている神経過敏なヒロインも似合う稀有な女優だ。深閑とした森にそびえる古式ホテルに逗留する映画監督とその母を一人二役で演じた本作は、そんな彼女のミステリアスな両義性の魅力が遺憾なく発揮されている。迫りくる老い、死の予感、そして鏡、階段、風の音、窓の不気味な活用。ミニマリズムに徹した語り口によって「レベッカ」「らせん階段」などの古典的ゴシック・ホラーの格調を感じさせる逸品。
往年の「雨の午後の降霊祭」のクラシカルな風味を愛してやまない高齢者世代にとってはいささかシンドイ作品である。おぞましい来歴を持つ謎の手首を握り締め、「トーク・トゥ・ミー」と唱えるや、あら、不思議、90秒で誰もが例外なく悪霊に取り憑かれ、トランス状態に陥って殺戮を繰り返すというプロットというのは果たしてアリなのだろうか。それぞれの高校生たちが背負った因果律などはまったく等閑視され、狂騒的なゲーム感覚ばかりが画面を跋扈していて疲弊感だけが募ってしまう。
さまざまな人種が混在するオレゴンの辺境を舞台にした異形な西部劇という趣向は、R・アルトマンの「ギャンブラー」を想起させる。あのミセス・ミラーとマッケイブの奇妙な関係をこの映画の二人の男の友情に置き換えると腑に落ちるのではないか。とにかく時制を大胆に省略し、行き当たりばったりで、どこへ転がるのか不分明な語り口がユニークで、後半、L・グラッドストーンが登場するせいだろうか、M・スコセッシの血に塗れた新作の牧歌的な裏面史のようにも映ずるのは興味深い
素人を起用した劇映画撮影を巡る自己言及的な劇映画。現実生活に問題を抱える子どもに彼ら自身と似た役を演じさせ、プロの役者が映画監督を演じ、劇中で監督は子役らの“リアル”を取り込もうと一線を越える。現実と虚構の境界線を現代の基準に照らして自己批評しているが、後味は優しい。80年代の「子供たちをよろしく」「ピショット」「クリスチーネ・F」が素人の生々しさで驚かせたが、束の間、映画撮影の非日常を生きた子供たちの日常はその後どうなったのだろうと、当時想像したことを思い出した。
ティルダ・スウィントンとのコラボでも知られるジョアンナ・ホッグは評価の高い監督だが、日本では重視されてこなかった。その作品は個人的・半自伝的で、コロナ禍に撮影された新作もまた独立しつつ、前作「ザ・スーベニア」と未公開の「PartⅡ」と同名の母親役をスウィントンが演じる連続性を持つ。古いホテルを舞台にジャック・ターナー的なゴシックホラー演出―霧、鏡、壁紙、階段―を華麗に纏いながら、中年女性監督と死を意識させる老母の絆を伝えるこの注目作は魅惑的な入口になると思える。
ドラッグやアルコールへの依存を、死を弄ぶ降霊パーティーの危険性に置換したオーストラリア産の青春ホラー映画。監督がドラッグに纏わる身近な経験に重ねて語っているが、文化批評よりも心の問題に眼目がある。死者の苦悶を自らに憑依させる肝試し的な刺激が依存を生む。引き金は主人公自身に巣食う喪失感と孤独感で、A24“好み”のブランド意識とも合致している。人物造形も演技も類型をまぬがれない。が、降霊のルールが破られて以降、雪だるま式に地獄の様相を呈する畳み込かけで飽きさせはしない。
ケリー・ライカートの傑作。21世紀の巨大な艀と19世紀前半の筏に乗る牛のイメージが結ばれる。1820年オレゴン。ラッコやビーバー狩猟に翳りの見えてきた森で、白人の料理人と中国人の男が出会い、最初の牛が連れられてくる。2人は牛の乳を盗み、作ったケーキドーナツが評判になるが……。「ギャンブラー」「さすらいのカウボーイ」「ビリー・ザ・キッド」「デッドマン」の時代色とリリシズムを思わせる。近年これほど自然で、飾り気がなく緊密な映画も珍しい。淡々として奥行きの深いアメリカ映画。