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ある場所に大人が三人。耐久力も集中力もない筆者は強度があるとは言い難い画、殺風景なまでの部屋での、いささか観念的すぎるように思われる言葉の連続に逃げ腰に。友人の娘殺しの動機……とも言うのは野暮だろうが……長い長い反復に耐えて明かされる答えや物語にも、胸をかきむしられるようなものも新奇性も感じられない。でも、さまざまなリズムで打ち寄せる言葉の数々に自分をまきとられていくその体験、不可視に目を凝らし続ける時間は、ぜひ映画館の暗闇にて。
今年の春先だったか、その問題が取り上げられていた渋谷のトイレ群が随所でなんともオシャレに画を彩る。編集は快調、ネオンや酒場の灯りも上品に、素敵に整えて描いてもらった東京。観光気分で目に楽しい、のんきな嘘っぽさが続くが、役所広司が刻む表情と身ぶりはただただ素晴らしい。個人的に「些細なしあわせ」とか「喜び」と聞くと見え隠れする欺瞞に不快になる。どんなにそれを毎日見つけたとして、自身が生かされていると思っても、完璧な一日を積み重ねても人は必ず死ぬ。
「どれだけお金をもらっても面白くない」アルバイト生活をやめ、芸人としてお仕事を、と山形の地へ。コロナウイルスから屋根裏への珍客といった大小様々なハプニングにくわえ、救いの神があらわれるといったドラマもあるも、終始淡々とした主人公、ソラシド本坊さんのキャラクターの魅力と、実体験に裏打ちされた言葉が抑制的でいて、映画をクールに引っ張り上げている。人間の肩書きとは何か? それは生きていくこととイコールか。浮かびあがる問答をも“エモい”では終わらせない。
激しく燃えて生き急ぐ、の言葉は魅力的だが、今では時代遅れか。夭折の異色作家の声に神経を浸食された男が作り出す音と、それに感応するサイキック若者集団というアイディアが面白い。今月号の別作品でも都会(東京)の街が描かれ、また演劇的要素も含まれているが、本作では若者たちのパフォーマンスや響き渡るノイズよりも、背景に横たわるビル群と夜景の巨大さが迫力を奪ってしまっているのが否めないかつ、現代的な若者たちとセリフが終始ちぐはぐな印象なのも拭えない。
映画の冒頭で、ある殺人事件をめぐる物語だということは示されるが、それ以降は、その殺人に至るまでのいくつかシーンを俳優たちがホン読みし、リハーサルする様子が延々と映されることになる。同じシーンが、ときとして執拗なまでに何度も演じられ、そのつど微妙に俳優の演技が異なるが、そうした別テイクが映画の完成形に向かって順序よく並んでいるわけではない。映画という形式、そして映画における俳優の演技について、その根本にまで遡って考えさせずにはおかない作品だ。
ヴェンダースが30年近く前に撮った「東京画」の劇映画版とも言えるが、「東京画」をはるかに凌駕した作品だ。小津安二郎の映画によく出てきた人物と同じ苗字を持つ男の日常が、それこそ小津さながらに、しかしあくまでヴェンダース的な画面の流れのなかで展開していく。車を運転しながらカセットで昔の歌を聴き、カメラで木漏れ日を撮影するこの初老の男は、ヴェンダースの分身でもあるだろう。首都高、下町、水辺が人物の移動とともに映り、東京の街の風景がにわかに息づいてくる。
山形に移住した芸人が、素人でありながら農業に挑戦し、数種類の作物を育て、収穫し、販売していく過程を追ったドキュメンタリーで、そうした題材自体は興味深い。しかし、ドキュメンタリー映画ならではの、題材に切り込むといった覚悟もなければ、撮影者と被写体のあいだに生じるはずの一種の葛藤のかけらもここにはない。芸人を題材にした吉本興業の作品だからだと言ってしまえばそれまでだが、ハプニングも含めてすべては予定調和的に展開していき、弛緩した時間が流れるばかりだ。
村山槐多の人生が語られるわけではなく、槐多に魅せられた現代の若者たちを描いた作品だ。それぞれ超能力を有した彼らが、過去から響いてくる槐多の声を聞き取ったり、槐多作品にインスパイヤされて、どこかアングラ芝居ふうのパフォーマンスを披露するうちに、映画そのものも実験映画さながらにありきたりの劇映画の枠組みからはみだしていく。終盤にはフィルムを燃やすショットもあり、映画そのものの解体も辞さない意欲作だ。ただ、キノコ雲の映像はあらぬ誤解を招きかねない。
家族という閉域=王国、そこに生じる歪みを察知してしまった一家の友人によって一つの死が招かれる。その友人と画面には不在の死んだ幼女の二人がその王国の歪みを露頭させる存在だが、映画自体もリハーサルの設定で何度も台詞を反復し、増幅し、解析する装置となる。リハーサルの中で役者たちが変化しているという印象もあまり受けない(始めから完璧)ので、この設定が映画にとって必須だったのか(製作条件だったのかとは思う)若干疑問が残るも、この達成はやはり見事だと思う。
ヴェンダースが日本で撮った映画にはすべて小津の影が落ちているが、ここでも同様。レトロ(カセット、フィルムカメラ、銭湯、古本)とモダン(ツリー、トイレ)が隣り合う本作の日本に、古典的かつ先鋭的な小津を感じる。「夢の涯てまでも」のハイパーテクノロジーはバブル期の日本のドキュメントでもあったろうが、本作の、ほどほどのところで心の自足を得る日本も、落日の日本のドキュメントであろう。主人公の生き方の理想化には複雑な思いだが、監督は誠実に日本を記録してくれている。
「山形住みます芸人」が農業してその試行錯誤を追う。野菜育てのノウハウ、成功や失敗など見ていて面白くないわけではないが、芸人だから撮ってくれるとはいえ、これを本職は日々やっている。YouTubeの「やってみた動画」みたいなものではないのか(知らんけど)。それを百分劇場で見せることに対し、さしたる戦略があるように見えない。地方、農業という選択も、芸人のリサイクル目的であり、地方活性化や農業に対する強い関心も主張もあるようではない。カメラの喋り、介入も五月蠅い。
欲というものに対して抑制的であるべき僧の、放恣な、しかも全裸の放尿。そこには確かに「無限に渇したインポテンツ」=槐多の、抑圧と欲望の葛藤が感じられる。その不能感は槐多の場合、思春期にして童貞(事実は知らないがそう思うと腑に落ちる)ゆえと解しうるが、本作の場合抑圧するものの正体が組織というだけで不詳。槐多の世界を表現するいまいちなパフォーマンスよりは、人を「普通」にする組織の正体や、その抑圧を破壊するすべを模索する方に重心を置いてもらいたかった。