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ギターのやさしい音色が印象的なこの伝記映画は、1920年代にアメリカに生まれたひとりの小説家が、ひとりのレズビアンとして生きた軌跡をたどる映画でもあった。「キャロル」をはじめとする、彼女の小説を原作とした映画の断片と、そこに彼女自身の物語が重なる瞬間には鳥肌が立つ。創作への向き合い方から、女性が女性と恋に落ちることの当時の社会的困難さについてなど、軽快でかわいらしいタイトルからは想像しなかったような人生の重みと示唆が含まれた映画だった。
友人同士である女優と女性弁護士が共に無実を証明するまでの物語と思って見ていたが、早々に勝利を手にしてしまい、第二の展開が待っていた。そこで突然現れた、イザベル・ユペール演じるかつての大女優オデットが、二人の勝利をかき乱す。オデットのキャラクターはかなり滑稽で痛々しいのだけど、そんな彼女が単なる悪役としてのみ機能する話ではなかったところに救われる。女性の参政権もなかった時代を舞台に、今にもつながる問題意識を軽やかに喜劇として描いているのがよかった。
今私は何を観ているのか?と思うような、観たことのないタイプの映画だという感じがしたのだが、そのカテゴライズのできなさが謎であり、面白さだと思った。陰謀論めいた街の謎や、超常現象も、すべて冗談みたいだけれども、その謎を追う二人の主人公たちは妙に現実感がある。観た後に知ったことだが、監督二人が主演であり、現場を三人で回していたというから、この妙な感じにも納得した。やはり作り方というのは、否が応でも映画の画面にも現れるものだということに勇気をもらった。
収容所生活を生き延びたダニエル・ハノッホさんの語りと、当時のニュースやプロパガンダ映像だけで構成された、シンプルな映画。終戦直後に食料よりもまず鉛筆と紙を求め、一晩中文字や絵を書いたという話に、彼の人間として生きていくことへの強い信念を感じた。迫害されたユダヤ人たちが船で、希望を背負ってパレスチナへと渡っていく話は、そこから今起きている戦争の出口のなさについて思い巡らすことになり、胸が痛い。メンゲレの話が中心ではなく、邦題に少しズレを感じた。
長年のハイスミス・ファンにとってはたまらないドキュメンタリーである。母親との熾烈なまでの確執、同性愛者としての側面が往時の愛人たちによって語られ、その栄光と苦渋に満ちた人生のピースは補完されるも謎は残されたままである。改めて「見知らぬ乗客」を見出したヒッチコックの慧眼に唸るほかない。「めまい」が暴いたようにヒッチコックはオブセッションの作家であり、ハイスミスも、二人をつなぐ「ふくろうの叫び」のクロード・シャブロルも同じ妄執に囚われた精神的血族にほかならない。
F・オゾンは現在のフランス映画界で大衆性と自己流の美意識を統一させた手練れの演出で一頭地を抜いている。本作は「イヴの総て」を反転させた小粋な笑劇だが、B・ワイルダーの処女作「悪い種子」の引用からもわかるようにワイルダーへのオマージュだ。I・ユペールの怪演は「サンセット大通り」のG・スワンソンを彷彿させるし、アモラルなファースの趣向は「人間廃業」を書いていたウーファ時代が想起される。しかし、そこには〈ファースへのノスタルジア〉(花田清輝)だけがあるのだ。
作り手曰く、LAという都市へのオマージュらしいが、残念ながらLAの魅力など画面から全く伝わってこないし、低予算のインディーズの弱点だけが露呈している。主人公二人がアパートの一室で遭遇する“超常現象”の陳腐さ、それをドキュメンタリー映画に仕立てるメタ映画風な発想にも既視感がある。土台、このワン・アイデアで2時間弱の尺を語りきるには無理があるのではないか。パンデミック下での企画らしく、全篇に漂う荒涼たるざらついた“幽閉感覚”だけが奇妙にリアルであった。
「SHOAHショア」以後、ナチスによるユダヤ人強制収容とホロコーストの全貌を伝えるのは当事者によるインタビューだけであることが立証されたかにみえる。だが、その唯一真正なる語りはいかに継承され得るのか。91歳のダニエルには最後の生き証人としての決然たる覚悟が窺えるが、彼を寵愛したメンゲレ医師が1400組の双子を縫合する手術を施したという証言には言葉を失う。アドルノの箴言を俟つまでもなくアウシュヴィッツとは未来永劫に亘って失語症を強いるおぞましさの表象なのだ。
「自信満々な人ではなかった。そこに好感を持った」。ハイスミスと暮らしたかつての恋人が振り返る出会いの印象は、即座に「キャロル」のルーニー・マーラを連想させる。この映画の広告、恋人たちの証言、そして若き日の写真もそうだ。かの犯罪小説家のイメージとは異なるが、そこには人間形成の地層があるのだ。母の愛を求めて叶わず、女性たちを愛し、本物の愛を見つけると外国に移住して……。「私は人生のどんな災難も栄養にしてみせる」。この決意と実践なくして作家ハイスミスは生まれなかった。
「8人の女たち」「しあわせの雨傘」と共に三部作を形成する新作は“アモラル”な偽装犯罪コメディ。ぼくが一番好きな「しあわせの雨傘」のみ犯罪ものではないが、「さて、それで女性たちはどうする?」のスリルは同じ。50年代、70年代と続いて今度は30年代が舞台。各作品、各時代のハリウッド映画の気取らないリズム感を踏襲しながらフランス風に料理した。オゾンはここでも女優への感謝を込めて、男性優位の社会に居直る女性たちの“犯罪”的な反撃にこそ“モラル”を見出だして気持ちがいい。
社会から孤立したような二人の男が出会い、部屋で浮遊する結晶体の光に遭遇、常軌を逸したドキュメンタリー制作を開始するが……。奇才ベンソンとムーアヘッドの巧妙なDIYスタイルは、否応なくパンデミック下の終末感、閉塞感、無力感や倦怠感を思い起こさせる。「X-ファイル」的な怪現象の推測がみるみるうちに陰謀バラノイアへと発展していく様子はブラックコメディ的であり、同時に、むしろ「ナイトクローラー」「アンダー・ザ・シルバーレイク」に連なる現代人の危機をめぐる寓話とも取れるのだ。
ホロコーストを生き延びた者たちには当時の子どもたちもいる。だからぼく自身が幼い頃は、今は大人であろうかつての子どもたちの記憶に想像を巡らした。だが、そうしたチャイルドサバイバーの研究が加速したのは21世紀だという。「メンゲレと私」はそんなリトアニア人少年の一人たる「私」に取材したドキュメンタリー映画。解放時まだ13歳だった少年は地獄をどのように受け止め、分析し、生き抜いたか? 今は老人の「私」は語る―「カニバリズムを目撃した人間は、何を抱えていると思う?」。