パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
冒頭、主人公フレディとゲストハウスの女性のささやかなやりとりのカットバックで、すぐにこの映画のリズムに惹き込まれた。生まれた国である韓国を異邦人として旅するフレディと、旅に同行し彼女をサポートするゲストハウスの女性のシスターフッドに着目していたのに、唐突に終わりがきてそこから全然違う映画のようになって戸惑う。しかしそれは突然自分の立つ場所がわからなくなり、直感を頼りにそのときそのときの判断を持って人生に立ち向かう彼女の感覚でもあったのかもしれない。
クローネンバーグの狂気が静かに爆発していた。痛みがエロティシズムであるというのであればわかりやすいが、そうでなく痛みのない世界で身体を傷つけ合うことの快感は、一体どんな感覚なのか。観た後もずっと考えている。奇抜な前提の世界を成り立たせているのは、俳優たちの演技のとてつもない強度だった。一体どんな演出をしたらあんなことになるんだろうか。人類の未来への鋭い示唆によって、生き物であることの絶望と希望を同時に恐ろしいまでに見せつけられた。
すべてのシーンに細やかさが行き届いている。派手なことはしないけど、一つひとつに含みを持った丁寧な脚本。女性として生きることの苦しみや寂しさが伝わってきて息が詰まりそうになる一方で、ひとりの人間として自分自身として生きようとする彼女のものだけの時間が輝いていた。お風呂で息を止める記録を更新したり、真夜中の湖でいとこと泳いだり、さまざまな水のシーンの描写が印象的。突如ストーンズの曲がハープの演奏で流れてくるのも、不思議と違和感がなくて面白かった。
その匂いも感じるくらいの風が吹き水面が揺れて、名付けられない関係性がふたりの間に生まれる瞬間を見た。幼さの残る少年少女は言うまでもなくうつくしい。青春映画のまばゆい瞬間は、それが思い出になったときの色褪せや幻滅を想像させるけど、この映画はそうではない。立ち尽くす枯れ木、風に揺れる葉っぱ、移動する陽の光、透ける髪の毛、嵐の夜の寝室、自転車で走り抜ける姿。フィルムという素材の中で自然と人間の営みが溶け合って、一つの音楽のような感触を残していった。
国際養子縁組をめぐるドラマは、畢竟、自分はどこに帰属するのかというアイデンティティの探求に帰着する。風貌は典型的な韓国人でありながら韓国語は碌に話せず、中身はフランス人であるフレディは肉親を探す旅に出る。その過程で彼女は否応なく自己同一性の激しい揺らぎに直面し、プライドは打ち破られ深く傷つく。冒頭、彼女が初見で楽譜を見て演奏することの醍醐味を得々と語る場面がある。そんな彼女の地獄めぐりの果てに、バッハの旋律が流れてくるラストには不思議な感銘を覚える。
「クラッシュ」の車体同士の衝突による痙攣的な快楽を筆頭にクローネンバーグのメタリックなものへの偏愛は止まるところを知らない。〈人類の進化についての瞑想〉なるお題目を掲げた本作もヴィゴ・モーテンセンの胸部にメスが入り、内臓器が蠢くさまを見つめるレア・セドゥが身悶えし、喘ぐ光景にこそエクスタシーを感じてしまう。手術を性行為そのものと捉え、パフォーミング・アートとして喧伝し、冷え冷えとした官能性を画面に塗りこめてしまう力業に感嘆する。
ロミー・シュナイダーの出世作「プリンセス・シシー」で人口に膾炙した皇妃エリザベートの生涯を気鋭の女性監督が現代的なフェミニズムの視点で脱=神話化した大胆不敵な試みだ。冒頭から頻出するコルセットを締めるシーンがある種の拷問として描かれるのが印象的。時代考証も無視してあり得たかもしれない歴史的な真実を幻視する語り口には、数多の抑圧と禁制によって拘束されたヒロインを「舞踏会の手帖」よろしき幻滅に満ちた流浪の遍歴から救抜しようとする作り手の意思が垣間見える。
〈年上の女〉ものというジャンルがあり、思春期の青少年が女性に翻弄され、通過儀礼を経て大人へと成長を遂げるパターンが遵守される。だが、この映画は微妙に違う。13歳の少年と16歳の少女の間に介在するのはイノセントでありたいという志向、淡い欲望の疼きといった相反する感情である。16ミリフィルムでとらえた湖畔の景観は薄暮や明け方ばかりで、いつしか〈死の気配〉が漂い出す。そして虚言の応酬の果てに悲劇が起こる。たぶんこの映画の霊感源はレイ・ブラッドベリの『みずうみ』である。
カンボジア人の両親とフランスで育った監督は、韓国からフランスに養子に出された知人女性の経験に触発されたという。まずこの前提の個人性が現代的である。映画はフランス育ちの若く自由で大胆な韓国系女性を登場させる。彼女は今、韓国にいる。なぜなら、この国に「生物学的な母親」がいるはずだからだ。異なる言語と文化の翻訳、自己同一性の問題を通して普遍性をもったが、演出は生熟れである。時折、別の映画のイメージ(ソフィア・コッポラ等)を借りてきてしまい、他の誰でもない作品独自の力を弱めてしまうのだ。
肉体と精神、医学とアートのサブカルチュア、アンダーワールドの陰謀世界は老奇才の“旅の集大成”といってよいが、同時に環境問題、産業廃棄物と摂食障害、不明な臓器の成長とその摘出をめぐる、より2020年代的もしくは未来的な“肉体と精神の現実”が練り込まれている。官能と死も欠かせないが、ヴィゴとレアの関係が「老化と介護」のメタファーとして機能している点が最もエロティック。「ザ・フライ」で先取りしたテーマだが、2人の選択に老監督の覚悟と境地を想像してみたくなった。
皇妃“シシー”といえば、まだ幼さの残るロミー・シュナイダーが演じた2つのシシー、おてんば娘の絵本の如し「3部作」とヴィスコンティの重厚な「ルートヴィヒ」をまず思い出すが、この新作は全く異なる物語を提出する。40歳迎えてなお身長172cmにウエスト51センチ、体重40キロ台を維持して「美貌が衰えて暗い雲のようになる」ことをおそれる不安と性の寂しさ。惨めに描いているのではない。クリープスは新たな解釈を加えてエリザベート像を解き放った。それだけに助演者の魅力不足が残念。
宣伝が想像させるよりも遙かに特異な思春期映画。冒頭、ほの暗い湖畔に死体みたいな影が浮かんでいる。夏のホラー的な幕開けだが、間もなく“その影”は泳ぎ出して水辺に波紋を拡げる……「悪魔のいけにえ」風の16mm撮影によるざらついた夏の映像美が、詩的に謎めいて、奇妙に生理的。14歳になる少年が16歳の少女(すばらしく粗野な眉のかたち!)に惹かれるが、思春期とは時に一種の“ホラー”に他ならない。ゆえに監督は水底に足のつかぬような不安定さを敷き詰めているのだ。