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最初の一口は美味しいのに飲んでいると途中でぬるくなって金属の味もして甘味料の甘さがべったり口に残ってしまう500ミリリットル缶チューハイの恋。なのにやめられず飲んでしまう。青春の典型的景色とじゃれあい、だけれども大切な思い出と心は未熟でも行えるセックス。自分では「多少のセクハラ」ぐらいに思っているであろう、「昔は良かった」と抜かす男の行為がいくら物語内で成敗されようともあまりに酷く、画面に映っているのが女性だけになるのを待ちながら見てしまった。
広大な空や川、長く伸びる道、舞い散る桜がゆったりと捉えられ、無常の世でそれぞれの葛藤を抱え生きる人間の営みを描き出す。「ファイト・クラブ」のエンジェル・フェイスがちょっぴり粗暴さを身につけて、スカジャン羽織って再登場、のような生気眩しい横浜流星! 擬似的父と息子、ぶつかり合いながら旅を始める二人のヒーロー。生の実感と「守りたい」の理由に拳は必要なものかという疑問が少々拭いきれず、<男たちの>映画という印象が。敗者となった、その彼の顔にはぐっとくる。
村の人々、新聞記者たち、行商人の一行、各集まりの中での人間の差──男と女の差であったり、着物を着る者と軍服の者、上司と部下、だったり──そして自分たちよりも下の人間がいるという強烈な意識が、大きなキャンバスの中で同じ質量で描かれ、カメラは惨劇を凝視することを求める。田中麗奈演じる、お嬢様のキャラクターが印象的。本人にとっては非常に切実な夫婦仲の悩み、情事という逃避……欲望を持つことは素晴らしいことだが、気づいたときにはもう社会で第三者ではいられない。
アンティーク調の家具やステンドグラスと、できすぎなくらいに可愛い主人公の部屋に始まり、白を溶かしたように優しく、カラフルな画がある種のお伽噺としての青春の舞台にぴったり。後半は「王子様」の過去や夢にフォーカスされ、ヒロイン自身の意思、これからの道が深掘りされないのが残念だったが(原作は未読)、流行りの病に関係なく、主人公と同様高校時代に手放せなかった方も多いであろうアイテム、マスクを大勢がいる学校という場所で無理に取ってしまわないのがいい。
カメラマンをめざす女と売れない大道芸人が出会い、一緒に暮らし、すれ違いから別れ、数年後、ともに自分の道を歩きつつひとときの再会を果たす……。既視感のある物語だが、海辺の風景と前向きなヒロインの姿が心地よい。そのヒロインの姿勢をなぞるかのように映画そのものも軽やかなフットワークで撮られている。それだけに、個展で目玉となる写真が他の展示作品と違いすぎることや海外で修行したはずの大道芸の進歩のなさが気になる。細部こそが映画という嘘を成立させるのだから。
試合のシーン、とくに世界タイトルマッチのシーンはすばらしい。これまでのボクシング映画を凌駕する激しさと、それゆえの闘う者どうしの交流を感じさせる。映画館に足を運んで観る価値はまちがいなくある。ただ、試合のシーンの密度が濃い分、人間ドラマの部分が見劣りしてしまうのは否めない。もちろん、俳優陣は熱演し、瀬々監督もいつも以上に被写体寄りの構図で撮影しているのだが……。主人公・広岡の姪であり、彼の過去につながる佳菜子をもう少し活かせていたらと思ってしまう。
関東大震災から100年目の年に向けて、こうした映画が撮られたことに対し、心からの敬意を送りたいし、ひとりでも多くの人に観てもらいたい作品だと思う。事実を丹念に調べたうえで緊迫した物語に仕上げてあり、福田村の人びとの日々と徐々にその福田村に近づく行商団の歩みとが並行して描かれるなかで、緊張が高まる。9月1日以降の展開は圧巻だ。それだけに、福田村にももっとのどかな日常があったのではないかと想像してしまう。日常から狂気への急転こそが恐ろしいのだから。
映画は、おもはゆいほど少女マンガ的に物語を彩り、マンガ史において少女マンガが果たしてきた役割がそうであったように、おそらく原作の小説よりも作中人物に心理的な深みをもたらしている。もちろんそれはモノローグなどでもたらされるものではない。街、空、校舎、級友たち、主人公である茜と青磁の周囲の世界を描くことで、ふたりにとっての世界を描いているからだ。他愛ない物語でありながら、校舎の屋上や廃園となった遊園地ともども、映画が色鮮やかに染め上げられる。
「ダメ男と、そういう男に惹かれるヒロインというキャラ」以上のものではない。なぜダメ男なのに惹かれるのか、それが掘り下げられないと、別れる辛さも葛藤も分かるまい。その苦闘を描くことこそが、キャラを人物へと変貌させるはずなのに、「十年後」に飛ばして、ご想像にお任せしますは戦闘放棄である。それで十年後すれ違い、お互い成功している姿見て、良かったね、って目配せ。何だそれ。ヒロインが写真家だからか、ラストで過去映像が回想風に流れるのもかなりダサい。
肩に載った花びらに始まり、夏秋冬とテロップが出るので、タイトルの春に佐藤が死ぬのだろうと予測はつく。もう後がないと感じる「二」人の主人公の同型性と対称性、考えるボクシングとやられても立ち上がるボクシングの対比など、形式上きれいに構築されているし、老いを演じた佐藤も素晴らしいのだが、しかしそんな形式を突き破る映画的瞬間が現れるのかというとそうでもないのが残念だ。試合のクライマックスでのわざとらしいスローも、今どきこんなのを使うのかとびっくりした。
確認を待て、日本人だったら人殺しになってしまうという村長に瑛太が言う「鮮人なら人殺しにならないのか」という台詞が肝である。良識派の中にもある無意識的な差別意識。とすれば、韓国で独立運動家の虐殺を見てきた井浦には、それをも撃つ批判が可能だったろうに、慎重派対虐殺派の分かりやすい対決の中で前者の一員に埋没してしまい生かし切れていない。各人物の造形が丁寧だけに惜しい。韓国朝鮮人虐殺をなかったことにしようとしている東京都への抗議も込めて観賞を推奨する。
冒頭でいきなりお前のことが嫌いだと言う男子、その台詞のインパクト演出に、彼の目や口のクロースアップ=モンタージュするのは映像に逃げているので、新鋭ならこういうのを使わずに印象に残らせる術を考えるべきだと思う。人物の造形も演技もキャラの域を超え出ていない。それは原作の底の浅さとキャストの力量故だが、それでも、彼らの名前の由来となった夕焼けや朝焼けの空の色を、屋上や廃遊園地という非日常空間で見せるロケセット撮影の美術は頑張っているのではないか。