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「フランシス・ハ」(12)でガーウィグを観たとき、監督としてハリウッドの第一線に躍り出るとは思いもしなかったが、インディーズシーン出身かつ女性である彼女が、“理想の女性像”を世に刷り込んできたバービーのフォーマットを使って、#MeTooの先にある女性のあり方を提示する試みは、それ自体が変革だ。新しい価値観を語るには説明が不可欠だが、それらを「言語化することで洗脳を解く」というメタ的な演出に重ね、男性の生きづらさにまで言及した手腕はさすがの一言。
ペ・ドゥナ本人からうかがえる、人としての潔癖さのようなものを、最も顕著に引き出しているのがチョン・ジュリ監督だ。「私の少女」(14)の姉妹篇ともいえる本作では、他者の無理解とどこまでも弱者を食いものにするべくがんじがらめになっている社会の仕組みが追及される。清濁併せ飲むのが賢い生き方とされる中、自分にも他人にもそれをよしとできない不器用な人たちの孤独な闘いは、正義として肯定されたりしない。誠実であることは絶望と真正面から向き合うことなのだ。
狭い車内でひたすらはしゃぎ続ける幼い次男。だが同乗する父親も母親も長男もうるさいとは思っていないようだ。異常なほどの騒音が背景音のごとく馴染んでくる頃、この一家が直面している事態とそれぞれの反応から見えてくる、イラン社会の現状。ロングショットを効果的に使い、遠回しの会話や音で匂わせる演出の奥ゆかしさは、抑圧のメタファーでもある。長男が握っていたハンドルを繰って帰る母親の姿は、家族というものから独立した、一人の女性としての出発のようにも見えた。
W・アンダーソンの映画が「笑える」かどうかというと正直よくわからない。ユーモアありげなルックを伴いつつも、緻密な作為や膨大な情報量が、素直な笑いを許さないことも。ただ、今回はそのいかさまっぽさこそが圧倒的にリアルだった。コロナ禍の隔離生活を彷彿とさせる封鎖地域で、ステロタイプとして擦られすぎた宇宙人像が、人を小馬鹿にしたようにポーズさえとる事態を、荒唐無稽と言えるだろうか? 未知のウイルスで全世界がロックダウンしたのはたった3年前のことなのに?
「トイ・ストーリー」じゃなく、この物語のパターンで「トランスフォーマー」や「G.I.ジョー」も撮って欲しい(あ、よく考えたら、それ「レゴ・ムービー」か……)。マーゴット・ロビーって自分の顔や体型がキモいってわかってる人なんだな。ライアン・ゴズリングって、ものすごい芸人なんだな。バービー人形の発売ってパラダイムシフトだったんだな。多様性のことを言えば、すべての女児が人形を好むわけではないとは思うが、まあいいか。理屈で作られた映画だけど、僕は理屈が好きなので気に入りました。
被害者の死から映画を始めて刑事が過去を追ってくような常套手段の構成を裏切っていて、だから前半の主人公が「なぜ自分が死ななきゃいけないのか、よくわからない。でも死ぬしかない」と追いこまれていく過程がリアルすぎて、観てるほうも「えっ、そんな会社、早く辞めればいいのに」と、わかってない友人の役に立たない冷たいアドバイスみたいな感想をもってしまい、マジで後半、いたたまれなくなります。新自由主義の下で心を削られていく社会のキモチワルさは日本も他人事じゃない。
笑わせどころは笑えたし俳優もみんな良かったし風景はとにかく綺麗だったけど、なにかもうひとつ……。両親がもっと本当のひどい人間だって設定にしたほうが、長男の動機や次男のキャラが理解しやすくなったんじゃないだろうか。そんなことしたら全然ちがう映画になっちゃうか。僕は「国家と家庭は、同じような毒をもってる」と考えてるんだけど、そんな観念的でのんきなこと言ってられるのは日本が今のところ平和で安全で、僕がこの映画の家族みたいな目には遭っていないからなのだとも思う。
かつてテレビの中と荒野のまんなかにあった古い未来の夢。遠いようで近い核実験のキノコ雲。ヌケがよすぎるウェス・アンダーソン色の青空と砂漠、シンメトリーで安定した広大な画面のまま豪勢にパンして、これCG使ってないというのがまず驚き。天才ちびっこ発明家たちが親たち(DV被害の精神状態を使って役作りをするスター女優も)が見てる前で軍から表彰されてるところにフニャっと訪れるエイリアン。皮肉で奇怪でほぼ無限な「アメリカ」のイメージ連打から見えてくる、家族の寂しさ。
フェミニズム問題の最前線にいるマーゴット。本作でのバービーランドも、すべての職業をバービーたちが担っている。しかし人間界からの負の逆流が、完璧なはずのバービーを侵食し始め、解決法を見出すためにバービーは人間界へ向かう。しかし勝手に同伴したケンが、現実の「男らしさ」に憧れを見出し、バービーランドは人間界に汚染されてしまう。中絶反対が起こる世で少女らが赤ん坊人形を叩き壊し、バービーを手にする描写も必然であろう。だが全般に騒々しい演出のみが続くため逆に平坦に感じる。
チョン・ジュリ監督の前作「私の少女」は、同性間の愛と魔性を捉えた傑作だった。本作は打って変わり、人間の尊厳を破壊し感情を殺す、ブラックなコールセンターの実態を描く。企業だけでなく、電話をかける側も客の立場を利用し口汚く罵倒する。企業内の労働基準問題は日本でも行き届かず、駐車場で抗議としか思えぬ焼身自殺を図った男性の、あの企業はその後改善されたかに思いを馳せずにいられない。刑事のペ・ドゥナ一人で解決できる問題ではなく、歯車として壊れた女性に涙を零すのがやっとだ。
本作を鑑賞後、父のジャファル・パナヒの新作「熊は、いない」も観たが、傑作で圧倒的に格が違った。息子のパナーの作品は4人家族が車で旅をする設定だ。どうやら長男を国外に逃がす目的らしいが、理由は語られない。まだ幼い次男は、別れも知らず車内ではしゃいでいる。母が音楽に合わせて踊ることが、女性として戒律に触れる要素もあるようだが、そもそもなぜ長男は国を脱出するのか。もし監督に訴えたいメッセージがあるならば、それが映画製作の初期動機のはずで、曖昧にする意図がわからない。
ウェスの隅々まで作りこんだ箱庭的世界は変わらず。今回は白黒のテレビ番組で映画撮影の裏側を紹介する二重構造もある。トム・ハンクスすらビル・マーレーとすげ替えて変化がない状態で、TV司会者役のブライアン・クランストンは「犬ヶ島」の声の出演に続き、渋くてウェスの箱庭に負けていない。もはやウェスはドラマもないほうが自然という結論に達したように見える。これまでの軽々しい生死は感情の抑揚への抵抗であり、もはや無理にエモーショナルな設定を入れた初期のほうが違和感すら覚える。