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望遠レンズでぼやけた色彩が、画面のあちこちで踊っている。クローズアップで切り取られた2人の少年は、お互いの息づかいがわかるくらい近い。近視眼的な視点で撮られたこの映画は、物語への集中を強いると同時に、直線的な感情へと導く。そのやり方には少し息苦しさを感じた。悲劇が日常を飲み込むのはそういうものだと思うけれど、生きることのさまざまな時間がもう少しだけ見えたらよかった。親友から遠ざかるにつれて、主人公の言葉が失われていくのが印象的だった。
ハイジやチーズなど自国の誇りとされるものを貶めるような描写や明らかなナチスパロディなど、スイスでの反応は大丈夫なのかとソワソワしてしまう。コミカルであまりリアリティがないため、残虐な描写は思ったほど心を痛めず見ることができた。ただ、小汚い机で中年男性が一人、移民申請書に機械的に不認定スタンプを押すシーンは日本の入管法のことを思い出し暗い気持ちに。世界の最悪な出来事のチープなパロディとして、政治的な視点で観るといろいろ考えたりできそうだと思った。
声も聴こえないくらい遠くから、皆を見ている映画の視点が印象的で、どこか寂しい。母の笑顔がずっと見えないことに、うっすらと不安を感じながら観ていたが、最後に訪れる結末は悲しいものだった。ジャンヌ・ディエルマンのことを思い出す。日々積み重なったものが毒となり彼女を蝕んでいたのかもしれない。繰り返し流れる能天気なテーマ曲の嚙み合わなさが、この映画を単純なメロドラマにしないでいる。少年の物語であり、彼に人生を捧げた母の孤独についての物語でもあった。
生きていると苦しいこともたくさんあるけれど、なかには助けとなってくれる人もいるし、人同士の関係性も日々変わっていく。ゲイであるという理由で主人公を差別していた同期たちが、最後、海兵隊の仲間として庇ってくれるシーンは、人と人の関係性は流動的で、思想も変化するものなのだという希望を感じた。一方で、自分の考えを変えることのできない母との対話のシーンは苦しい。海兵隊がある種のセーフティネットになっているアメリカという国についても考えさせられた。
今だとタイムリーなLGBTの文脈で語られがちだが、むしろそうした社会学的なタームでは零れ落ちてしまうある繊細さこそがこの映画の純粋心棒だろう。幼馴染みのレミとレオは家族よりも親密な仲だが、レオのある行為が思いもかけぬ悲劇を招き寄せる。映画はレミが不在となった後半、〈赦しとは何か〉という隠れた主題が浮上し、思索的なトーンが一層深みを帯びる。とりわけレミの母親を演じたエミリー・ドゥケンヌ(「ロゼッタ」のヒロインだ)の哀切極まりない名演が深く記憶に刻まれる。
冒頭の独裁国家の党首による大虐殺。20年後、生き残ったヒロインはセックス三昧に耽る日々。なかなか牧歌的でキュートな出だしだ。ナチもの、女子収容所もの、功夫活劇etc、1970年代に隆盛を極めた、いかがわしいB級ジャンル映画を再構築せんとする作り手の心意気やよし。だが如何せん、全てはすでにタランティーノが踏破した試みの二番煎じという印象は否めない。いかに巧みに〈引用〉や〈オマージュ〉に耽っても、肝心の復讐譚が後半失速してしまい、心に響かないのはそのためだ。
悪ガキたちの喧嘩が始まるといきなり画面が活気づき、脚本に参加している侯孝賢の傑作「風櫃の少年」を否応なく想起させる。朱天文と思しき隣家の少女の視点で綴られる危うい均衡を抱えたある家族の年代記だが、回想から徐々に浮かび上がるのは主人公アジャと母の運命論的ともいうべき痛ましい受難のメロドラマだ。「秋立ちぬ」にも似た甘やかな感傷を滲ませた結末も深い余韻を残す。そういえば昔、侯孝賢に取材した際、日本映画で最も偏愛する監督は成瀬巳喜男だと述懐していたのを思い出す。
ブートキャンプで教官と訓練生の間で交わされる印象的なダイアローグがある。「戦争では痛みは言い訳にはならん。痛みとは?」「体から出ていく弱さ!」。おぞましいほどにリアルだ。ホームレス出身で黒人、そしてゲイと、まさに社会の最底辺で辛酸をなめ尽くした監督にとっては軍隊こそが最後に残されたアジール(避難所)に他ならないだろう。そんな幾重にも屈折した眼差しを介して紡がれるのは「フルメタル・ジャケット」の地獄の洗脳とは微妙に異なる、もう一つの〈アメリカの夢〉には違いない。
若者をめぐる映画が並んでいるが、これはベルギーの少年の物語。「Girl/ガール」の監督によるカンヌ・グランプリ作で、少年同士の親密な友情と曖昧な性をマジックアワーの淡いに包み込んだ。全篇が強力なクローズアップの連続からなり、痩身の少年の引き裂かれるような喪失感に類稀なる繊細さを沁み入らせている。同時に、これは大人たちの辛さの物語でもあった。少年は、異性の言葉をきっかけに友情を失い、言語化以前の孤独に蝕まれていくが、大人たちも彼の痛みに適切な言葉を与えることができないでいるのだ。
「アルプスの少女ハイジ」のエクスプロイテーション版を狙ったスイス映画だが、終始ニコリともせずに見ている自分に困った。アイデアはいいが、この手の本場たるアメリカ映画のフットワーク、リズム感に欠けて、役者の芝居も間が悪い。そうした要素が偶然の独自性を生むこともないし、刈り込んで短篇にすべき等々……しかしながら、このジャンルを楽しめるか否かは、客観的な評価を越える体質とセンスの問題である。単純に新作が並ぶ星取りでは数の比較を免れずフェアでないが、ぼくは★。
この秀作にして日本初公開に驚く。原題を「小畢的故事(シャオビーの物語)」といい、ほとんど哀れなまでに問題を起こしてしまう少年と家族の物語。同時代の日本映画とも通じる懐かしい時代の風が吹いてくるのを感じたが、見事に抑制された演出で思春期のリアリティを切り取っている(夜、懐中電灯で読み耽る『チャタレイ夫人の恋人』の可笑しさ)。しかしこうした追想の語り部は女の子であり、国籍を越えた普遍性と簡素な映像と音楽の細部から70年代台湾・淡水の歴史が立ち上がってくるのだ。
A24映画は積極的に作者の自伝性と個人性を打ち出し、個人発信時代の意識に合致した傾向を生んだ。これは強みとも弱みともなって表れてくるが、この優れた監督デビュー作もその両面を感じさせる。新兵訓練所を舞台にして語られるのは、自身ゲイである監督の実体験に基づく物語である。黒人のゲイ青年の心の茨と軍隊での成長を通して最も裕福、かつ強力な国家の底辺を生きる個人の声に尊厳を与えた。だからこそ、A24のレーベル戦略を突き抜けるような個性に至らない無念さも残った。