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およそヒロインらしからぬ、救いようのない迷惑極まるクソ女。うるさくて下品で野蛮で俗物でエゴ剝き出し。ヒールの美学などもってのほか。徹底した下衆ぶりはむしろ清々しく、演じるアニー・ハーディの芝居心に驚嘆するやら呆れるやら。それは誰もが少なからず持つ野卑な側面の究極系でもある。奇想天外で荒唐無稽な展開も、破壊的なまでに臨場感を突きつめたカメラワークと、下ネタからスプラッタまで体液祭りの質量で、ツッコむ隙を与えない。白石晃士監督が嫉妬しそうな一本。
政治が個人の内面に与える負の影響を、限られたシチュエイションで最大限に描く。注目すべきは被害者であるところのヨーゼフ自身のパーソナリティだ。上流社会の優雅な生活を謳歌する気配、危機感の欠如、シニカルな性格などが、単なる「被害者」として彼を見ることを拒み、生身の人間の物語であることが際立つ。監視の目を盗んでチェスを習得する描写はいささか具体性を欠くが、全世界がコロナ禍での隔離生活を体験した今、彼の物語は一定の普遍性とリアリティを獲得している。
冒頭でトウシューズに包まれていた足は後半でそれを脱ぎ捨てる。イサドラ・ダンカンを彷彿とさせるこのモチーフに、アルジェリア女性の闘いが重なる。過酷な環境でダンスを志すフーリアの踊りは、その切実さと怒りを体現しているゆえに顔つきが険しく、ステージで「魅せる」表情とは違う。これはアルジェリア女性の虐げられた状況、また公共の場で体を使った表現がタブー視されている現状を反映しているともいえるが、踊りの自由や楽しみを味わう描写としてはあまりに重い。
数年前、アメリカのフェスで歌うシャルロットを間近に見た。カリスマ的な存在感の母ジェーンに対し、いまだ少女のような佇まいはどこかフラジャイルで身近に感じられた。そんな彼女が打ち明けた母親への愛とそれを失う怖れは、「依存」といった言葉では形容できない、複雑で繊細な母娘の関係性に踏み込む。「母に近づくためにこの映画を撮った」という監督シャルロットの動機と手段は、井口昇監督の「わびしゃび」(89)にも似て、被写体とカメラの間に宿る感情が何とも美しい。
人を食べたり殺しまくったりしながら追ってくるものから主人公の女が逃げたり反撃したりする映画の最近の奴や定点カメラや主観映像の怖い映画を僕は観ていなくて(定点カメラや主観映像のエロ動画は好きです)この映画がそういうのの定番をどのくらい引用してるのかがわからんし英語のラップもわからんのだけど配信のコメントがツッコミになってるので退屈しなかった。それとひどい話なのにイヤな気分にならなかったのはなんでだろう。意外とセンスいい映画だったのかな。楽しかった。
ファシズムは、ほんとうに世の中からなくなってほしいよ。主人公は平和な時代には数字を職業にして趣味でことばや物語を愛した。ことばだけがあればいい人だったのかもしれない。しかし拷問でことばと物語を奪われ、偶然みつけたチェスの精神世界に逃げるしかなく、海上で「ここはどこ?」と苦しみつつ、チェスでしか世界とつながることができない男と対戦することに。この異能の世界チャンピオンがナチスの男と同じ顔だったのを、どう解釈したらいいのか……。希望のない話だけど力作。
誰の人生も、どこの国の歴史も、それぞれに悲惨。けれど自分が得意だったものの一部を奪われても、命さえ失くしてなければ残った部分を使って何かをして、そこに誰か他人がいれば一緒に何かを始めることができる。命まで奪われたとしても、生き残った者が何かをすれば何かが始まる。とりあえず体か心の動く部分を動かしてダンスしてみるのはいいことだ。踊るとテンションがあがる。楽観的な「めでたしめでたし」で映画は終わるわけもなく、かといって可哀想なまま終わるわけでもない。
築地でメシ食ってるところも、たぶん撮ったんだろうから見たかったな。どえらい女から生まれた女が関係のぎこちなさを乗り越えて母が何を考えていたのか聴こうとするが、なにせ二人とも大スターでロケーションも孫も美しすぎるしお膳立ても整いすぎてて、一般の母娘の葛藤を考える参考になるのかな……? 娘はラース・フォン・トリアー作品の常連だから、つい、あっちの「ありえねえ話」のほうがよほどリアルだって思ってしまいました。セルフ・ドキュメンタリーってむずかしいね。
動体視力の限界に挑戦するPOV。迷惑系の配信をしているアニーは、反リベラルと書かれた帽子やシャツ姿で、確実に人が不快になる言動をする。ラップは器用だがゾッとするほど全篇にわたって下品だ。アニー本人もミュージシャンで、映画とのキャラの境目がわからず、あまりにしたたかで悪びれない態度は少し好感が持ててしまう。ただし印象的な前フリの回収や、不気味な現象や演出の意図の説明がないため、映画として消化不良。汚物恐怖症にはきつい作品だが、エンドロールのスタッフ愛は感心した。
ツヴァイクの小説の映画化で、実話のようなナチス的非人道性に溢れている。主人公は高額を扱う会計士のため、強制収容所ではなく、口座を聞き出すため監禁によって、精神的虐待で錯乱に追い込まれる。主人公役のオリヴァー・マスッチの役作りは凄絶で、当初の自信に満ちた姿と戦後の痛ましい佇まいは同一人物と思えず息を飲む。現在進行形の船旅と、ナチスによる監禁を時間軸が往来し、そこからチェスとの関わりが見える。錯乱した記憶がともに旅をする演出も、悲哀を際立たせる。
監督はアルジェリアにおける女性弾圧を描く、ムニア・メドゥール。主演のリナ・クードリもメドゥールと再タッグとなる。もはや売れっ子俳優だが、祖国の問題には積極的に取り組む意志を感じる。今回クードリが演じるのはバレリーナを目指しながらも、テロリストの男に階段から突き落とされ、骨折の大怪我とトラウマで声を失う女性の役。それでも映画は柔らかい光や布の優美な動き、軽やかなダンスで、女性の柔軟性や芯の強さを描く。国外脱出を図る者が後を絶たないなど、国の内情も伝える作品だ。
特異な環境に置かれた母子の、娘による監督作。二人に距離があったと言っても負の感情ではなく、馴れ合いができないという類のもので、今の関係性も悪くなく感じる。彼女らの会話も感情のぶつかり合いにはならず、娘が落ち着いて母の言葉を引き出していく形だ。シャルロットが盤石な家庭を築いているのも、母の激しい人生を反面教師としているのかもしれないが、映画としては冷静で見やすい。セルジュ・ゲンスブールの遺品を見つつ、奇妙な生き物の記憶を語るような二人が何気なく面白い。