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ニコラに女の子の友だちができる。彼女は親の前では大人しくしている。ニコラと二人きりになると本性を現す。サッカーボールを蹴っ飛ばし窓が割れる。全部ニコラのせいになって怒られる。小学生の男の子と女の子の関係ってこんな感じだったと思い出す。とびきり明るくて懐かしい物語。作者二人の物語も同時に描かれる。彼らの会話の中から次々とキャラクターが生まれていく。共作の喜び。この二人が出会わなければ作れなかった。小さなニコラがそこかしこに登場する。かわいい。
ウマ・ヴァレティさんは声を荒げて怒ったりするところがない。描かれる家庭や仕事場での振る舞いを見ていても真面目そのもの。真面目が行き過ぎてちょっと狂気を感じる。研究所に集まってくる人たちもどこか変。その道でずっと研究してきて、それが存分に追求できる喜び。みんな鼻の穴を広げて研究の成果を語る。ウマ・ヴァレティさんは金集めもうまい。偉い人とちゃんと繋がって計画を進めていく。どうも胡散臭い。意地悪に見てしまう。ウマ・ヴァレティさんとは友だちになれない。
エドウィン・ケーが犬の散歩をしている。一匹の犬が癌を患っていて抱きかかえながら散歩するのが微笑ましかった。彼はどこにいてもユーモアを忘れない。サラ・ガーナーはバリバリのキャリアウーマン。キレイな人で仕事もできて家庭もある。従業員はみんな彼女を慕っている。エリック・スウィントンはやたら低姿勢。いつも勉強になりますと頭を下げる。イベントで土砂降りの雨。挨拶している人のそばに雨が落ちてくるのがヒヤヒヤした。三人ともちゃんとしすぎてて物足りない。
明け方の部屋。妊婦の妻と夫の会話。そろそろ病院へ行かなきゃ。どこに行くの。執拗に聞く妻。と、いきなり爆撃で家に穴が開く。びっくりした。穴の向こうは平原が広がっている。妻は瓦礫の中に立ち尽くして馬鹿野郎と悪態をつく。妻が可愛がっていた牛を、夫があっさり殺して兵士に提供する。妻は不満をぶつける。夫はただただ受け入れる。妻のアナーキーな動きが面白い。夫と弟がいがみ合っているのを放っておいて平然と水を汲みに行く。ひどい状況なのにどこかユーモラス。
幸せとは言い難い子供時代を過ごしたからこそ、せめて物語のなかで理想的な家族とすくすく育ってゆく男の子の存在を描きたい。その動機に何の疑いもない。しかし男の子女の子と疑問もなく育て分けられる子供たちの成長物語であったり、ニコラのキャラクターのくったくのないやんちゃな男の子という描き方は、現代から見るとやはり「昔の男の子の育てられ方」なのだと感じてしまう。生みの親ふたりの友情とラストシーンで見せるニコラの「成長」は確かにいいシーンなのだが。
培養肉という発想自体がとても面白い。動物を殺さなくて済むかもしれない未来。子供のころから「命を食べているのだ」ということを教わってきたわけだが、培養肉を食べることは命を食べることではないのか。倫理観さえ覆るのがこの映画で描かれるテーマが持つ底知れぬ力ではないだろうか。ウマ・ヴァレティ博士の研究をこの先も知りたい。肉の経済価値も倫理観も大きく変わるであろうその未来をこの目で確かめたい。本作はまさに未来との出会いに向けて開かれた扉だろう。
ファストファッションが増え、安く買い、飽きたら捨てる社会。そんななかで洋服の未来について考える奮闘する人たちをフィーチャーする。とはいえ本作は基本的にファストファッションがある世界におけるビジネスモデルについての物語であった。安い賃金で奴隷のようにされてきた人たちがいたからこそ、そもそもファストファッションの存在がある(そのことも本作でも多少は触れられているが)。映画としてはプロモーションの域を抜け出していないように感じてしまった。
希望もない世界に新しい命が産み落とされる。これは「希望」を象徴しているとされるシーンだということももちろんできるが、私はそうは思えない。この映画には絶望しか描かれていない。そしてそれが戦争を描くことにおいてできる唯一の誠実な態度だろう。出産する女の存在に気づいていないかのように横暴でずうずうしい兵士たちは、ずかずかと壁が壊されて境界のない家を我が物顔で通り抜ける。生きていても死体と同じなのだ。死体としてしか生きる方法がないのだ。ぜひ劇場で。
もともとは実写とアニメを組み合わせるような企画だったとのこと。原作者2人をめぐる部分をアーカイヴのフッテージを使ったドキュメンタリーとして構成し、そこに「プチ・ニコラ」本篇のエピソードをアニメーションで見せていくという趣向だったようだ。本作はそこから発想を転換させ、作家のルネ・ゴシニとイラストレーターのジャン゠ジャック・サンペの姿もアニメーション化し、「プチ・ニコラ」が生み出されて発展していくさまをこの児童書の世界の中に位置付け直してみせた。
これは培養肉についてのドキュメンタリーではなく、ウマ・ヴァレティと彼の会社「アップサイド・フーズ(旧メンフィス・ミート)」を追ったものであり、要するに企業のPR映画である。その点は忘れずにおきたい。本作にはPR映画としての格好に狂いはなく、資金だ投資だレートだと、なんでも数字に還元する企業文化の発露が見られる。だが、屠殺を目撃した幼年期の話から培養肉を食べて喜ぶ検査員の顔のクロースアップまで、共感を呼ぶ「情動」の演出もまたPRならではの文法だ。
これは衣料廃棄物についてのドキュメンタリーではなく、香港の3人の起業家の事業を追ったものであり、要するに企業のPR映画である。その点は忘れずにおきたい。HKRITAはファッション・ショーを成功させ、リタイクルはシンガポールへの進出を図るなど、2つの企業は成長物語へと収斂していくが、Vサイクルは物語からこぼれ落ちる。プラごみの回収、低賃金労働の見直しなど、活動も衣服とは関係ない。この企業の存在が映画の輪郭を曖昧にするが、むしろそれが救いである。
構図とはある意味、秩序のことである。本作が明確な「構図」にこだわるのは、戦争の無秩序に対して秩序を構築しようという意志ゆえだろう。造形面における構図(巧みな空間把握)ばかりではない。それは生と死を対置させる作劇の構図に明らかであり、妊娠中の妻による出産が作劇上の終点に位置付けられ、誕生の瞬間が戦争による死と重ね合わせられるだろうと冒頭で観客に予想させる。また胎児を守る母胎は家であり、壁と屋根が崩れ落ちた家の中で命を守る最後の牙城とされている。