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クレーンで吊るされた巨大な岩の下でのセリフの読み合わせ。奔放な女性監督の暴言に振り回される俳優二人。男は顔に傷をつけられて激怒する。監督は男にまたがって体を密着させ傷の具合を見る。妙にセクシーなシーンでドキッとする。彼らはリハーサルで何本も仕掛けられたマイクの前で女性とキスをさせられる。監督が見本を見せるって言って猛然とキスを始める。アホだ。呆れる。俳優の嘘に翻弄され、本当だか嘘だかわからなくなる感じが面白い。意地が悪くて皮肉たっぷり。
船底ではたくさんの人間が艪を漕いでいる。船は人力で進む。この時代、船と船はどういう風に戦うのか。お互い大砲と鉄砲で撃ち合う。近づいて相手の船にカギのついたロープを引っ掛け乗り込んでいく。主人公の男がいつも沈着冷静で惚れ惚れする。何があっても動じない。両軍ともいくつもの偶然に助けられながら、あの手この手で戦いを続けていく。部下たちが大将を信じ切って、己の身を捨てて行動するのがグッとくる。我慢に我慢を重ねて最後、作戦がうまくいった時の爽快感。
男がホテルの部屋に帰ってくる。そこに電話がかかってくる。次のシーンはもう半裸の女とベッドの中にいる。何が起こるかわからないワクワクに満ちている。小学校に忍び込み机の中のノートを見る。いきなり子どもたちの話になる。とにかくみんな異常に生き生きしている。枝をつないで鳥の巣を突く。いちゃついたり抱き合ったりの描写が素晴らしい。子どもたちは小さな旅に出る。一人ずついなくなっていく寂しい感じ。夕暮れの河原で女の子が立ち尽くす。その後ろ姿の美しいこと。
ニコラス・ケイジは落ち目のスター。奥さんや娘に煙たがられている。仕事もイマイチ。空回りする大仰な芝居。笑っていいのかよくわからない。島に行って男と出会って、スパイの任務を背負ってから急に話が展開する。どうやって誘拐された女の子を助け出すのか。仲良くなった男を裏切らなきゃいけない葛藤。クスリをキメて街に繰り出す二人がアホすぎて微苦笑してしまう。実人生に、映画みたいな冒険が起こったらどうなるのか。ニコラス・ケイジじゃないと成立しない話だ。
今までペネロペ・クルスが魅力的ではないと感じたことが一度もない。この役がはまり役かどうかはわからないが、いずれにしても大変魅了された。彼女の表情をじっとみているだけで映画としての楽しみが何倍にもなるのだ。本作はペネロペだけでなく、役者たちの演技合戦(二人の役者の話なので)と少しビターな大人のユーモアに引き込まれていく。存在感の闘いだと言ってもいいかもしれない。シリアスななかに思わず笑ってしまうシーンなどもあり、バランスも秀逸で完成度が高い。
普段見ていないのにこう書いてはいけないかもしれないが、大河ドラマがちらちらと頭をよぎる。音楽も、カット割も、ナレーションの入れ方も。そして溢れ出る大河ドラマ感を前に、何だか自分自身がずいぶん老け込んだような気分になってしまった。日本人役も韓国人俳優が演じており日本語吹き替えなのだが、おかげでここ数年吹き替え映画を見ていなかったということを思い出した。どのシーンもずっと同じに見えてしまう私が時代劇映画について書く資格がないという自覚が高まった。
始まりからずっと、この映画が好きだなぁとしみじみ感じ、それが無理なく続いていく。どのシーンも言葉にし難いのだが、さざ波が押し寄せるように胸を震えさせ、きゅっと熱くさせる。記憶としての映像が入り混じり、におい立つ木々の香りと鳥の声を感じる。とてもノスタルジックなこの感じ。夢を見ているような、そして終わってしまうことを知っているような寂しさが少しだけ残る。あの子たちは確かにそこにいたのだ。チウ・ション監督の名前を胸に刻みつけた。紛れもない大傑作!
こちらも映画作りの物語。その裏に隠された誘拐事件と、家族との愛情の話と、ニコラス・ケイジ演じるニックとハビがともに脚本やアイディアを練りながら友情を深めていくさまが掛け算になり、てんこ盛りな本作。映画完成シーンはやりすぎ感もあるが、そのくらいのハイテンションさが本作の魅力なのだろう。何度も繰り返し見たいタイプの映画ではないが、こんなふうに盛り上がることもやはり映画の醍醐味である。個人的にはもう少し映画好き同士の友情に焦点を当ててほしかった。
基本はペネロペ・クルスのお色直し映画で、彼女は登場するたびに髪型を、眼鏡を、装身具を、衣裳を替える。だが、彼女が演じるのは俳優(視線の対象)ではなく、監督(視線の主体)である、と。配役の効果にせよ、作劇の構図にせよ、画面のコンポジションにせよ、たしかにすべてが明確でありながら、どこか釈然としない部分が残るが、ひとそれを感性の違いと呼ぶ、ということか。なお、ペネロペの衣裳と同等に多いのが会話シーン、そのヴァリエーションを様々に試す映画でもある。
ドラマを立ち上げるには顔に頼るしかないという信念に支えられている。「信念」というのは、その是非や効果がたしかかどうかは不明だと思うからである。作戦会議のときも戦闘場面のときも、敵と味方を問わずに将軍たちの顔と顔をつなげていくばかりだが、とっておきの兵器であり、作劇上で鍵となる「亀船」もまた龍の顔がある(そしてそれを隠すこともできる)という点が特別なのである。なお、本作では作戦とはほとんど船の陣形を指すが、これもまた「図=顔」の言い換えである。
18年製作の本作と清原惟「わたしたちの家」(17)の同時代性。しかしチウ・ションの場合、別世界との交通を可能にするのは「家」(空間を保証するもの)ではなく、空間の歪みをもたらす「地盤沈下」が始まりにあり、むしろ家の解体こそが主題となる。だから、監督がズームの使用をホン・サンスの影響だとか、測量機の模倣というのは照れ隠しなのだろう。ここでのズームは空間の歪みを視覚化する便宜的な技法だからだ。なお、劇中の謎々の答えは私にはわからずじまいだった。
ニコラス・ケイジによるニコラス・ケイジ。いや、ニコラス・ファッキン・ケイジ? 何度も笑ったし、最後まで面白く見たけど、くだらないとは思う。それに、あまり喜びすぎると「この映画を楽しむことのできるおれたち」みたいな仲間意識に回収されてしまいそうで警戒してしまう。調べてみると、ポール・ジアマッティの「コールド・ソウルズ」(09)とかジャン゠クロード・ヴァン・ダムの「その男ヴァン・ダム」(08)など、類似の企画はいろいろある。なお、ともに未見である。