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このご時世にオリジナルでこの規模の作品を成立させるのは大したもの。よく出来ているし。だから苦言を少し。群像劇だから長くなるのは仕方ないが、それにしても長い。心情をすべて台詞で語り過ぎ。半分とは言わないが、せめて三分の二に。あれは映画の余白を奪う。あと僕なら演劇パートを切る。演劇、バンド、太鼓、拳闘じゃ表現アイテムが多過ぎ。桜庭ななみが弱いので、演劇友人を桜庭と合体させる。そしたら母の死も不要に。劇中劇でテーマを語るのは御法度。脚本監督の限界か。
今時死体専門の役者なんているだろうか。その設定を受け入れるとしても、かつて劇団の座長までやった男があそこまでバカでいいんだろうか。だいたい妊娠検査薬が陽性だからって、自分が妊娠してるかもと疑う男がいるだろうか。バカでもいいけど、映画の中にしか存在しないバカはダメ。死についての考察も浅過ぎて。懇意になる風俗嬢の彼氏はバンド崩れ。ならばその挫折男を合わせ鏡にして価値観の対決させないと。何がやりたいか結局分からない。唐田えりかが頑張り損。でも頑張れ!
一体何がやりたい映画のか。忍者の擬似家族が老人を助ける。老人は姥捨政策を始めた元殿様で、家族は山に捨てられた老人たちと共闘して殿様を助けようとする。要約すると面白そうだが、登場人物の誰一人として気持ちも行動原理も分からない。これだけの役者たち、何も言わなかったのか。しかも冒頭以外、オールアフレコ。子役4人に至ってはなんとアテレコ。音楽も軽く、何かの効果を狙ってのことなんだろうけど、ただシラけるだけ。子役が可哀想。これは公開するに足る映画だろうか。
未成年による殺人事件で量刑が重過ぎると再審公判が行われる。しかし現実では量刑不当の再審請求が認められたケースは皆無。一人殺して懲役20年なんて成人でもあり得ない。ましてや少年法改正前の未成年で。以上を僕は弁護士に確認したが、この映画の作り手は取材した上で嘘をついているのか。それともこれは別の世界線での裁判なのか。人物描写も不明だが、役者は皆頑張っている。ならばなぜ脚本に異を唱えないのか。もっと自己防衛を。世界では「対峙」が作られているときに幼稚過ぎる。
震災や津波という言葉を一言も出さず、喪失感を自明のものとして、この世に残されて今を生きる者たちに寄り添おうとする。震災だけでなく交通事故やガンやコロナ禍もあるわけだが、そうして何かを失った人々が、芝居にボクシングにバンドに高校生活に向き合うのを温かく見つめ、その背中をそっと押す。青いと言えば青いのだが、そうでもしないとこの心の空白を語れないという切実さは伝わってくる。願わくは、その切実さをもう少し映画的な表現に昇華してほしかった。
ああこれはあるよな、と思ったのは、テレビの撮影現場で死体役の俳優が、売れている後輩の俳優に声をかけられるところ。人生のレースで抜かれてしまったような軽い敗北感。だからといってへらへら笑うことしかできない無力感と含羞。そんな売れない俳優の実感が、例えば部屋に呼んだデリヘル嬢とのやりとりにもにじんでいる。大仰なコメディ仕立てなのだが、奥野瑛太も唐田えりかも生きるのに不器用な役を自然体で演じている。母親役の烏丸せつこの死に方がとてもいい。
忍びの術をつかう優秀な母親が外でバリバリ働いて稼ぎ、気の弱そうな夫が家事と子育てをする。セリフはほとんど現代語で、音楽はジャズ。まるで現代劇のような軽快な時代劇。山中貞雄のように、と言いたいところだが、あの省略の効いたテンポの良さとリズム感はない。姥捨てや戦乱、謀反といった背景まで設定して殺伐とした武家の世を現代社会に重ねるような批判精神があって、その意気やよしだが、いささか消化不良で唐突。そこまでやるならもう少し予算をかけてほしかった。
「ドラマ」としての緊迫感はある。人物の性格や感情が明確で、日本映画にありがちな曖昧さがない。基調にあるのが恥の文化でなく、罪の文化なので、「赦し」という主題がくっきり浮かび上がる。画面の厳密さも緊迫感を高めている。同じ監督の「コントラ」同様、異形の日本映画だ。ただ「裁判劇」としては現実離れしてはいないか。再審が容易に認められない日本でこんな裁判が成立するのか。少年法の理念を問いたいのはわかるが、事実認定の不当を示す明らかな証拠は何だったのか。
被災地を主な舞台にしながら、人身事故を機にすべてを失ったヤクザや、青春を先延ばしして岐路に迷う舞台人らを効果的に使い、普遍的な群像劇を志したのが奏功。さりげなくも豪華なキャスト陣の、役どころをわきまえ抑制を利かせた演技が、少々メッセージ性が強めの台詞にも、まろやかで滋味豊かな趣を添える。年齢的にあべこべな生死がありふれ、救えたかもしれない生命さえ失われている今、ネガティヴな思考に支配されがちな心の渇きに、ほんのり潤いを与えるかもしれない意欲作。
死体役も斬られ役同様、突き詰めれば奥が深く、それをないがしろにする撮影現場は二流であることがシニカルに示唆され、奥野瑛太史上稀なクセのない役柄を通し、彼の演者としての純粋な芯のようなものが垣間見えるのにも興味津々。売れなかろうが役者の道に必死にしがみついてきた主人公と、献身的な恋人に依存し音楽を諦めかけているヒモ男の、紙一重にも見えるふたりの対照性が、烏丸せつこの名演光る母の愛を介して明確に際立てば、さらなる良作に成り得たようにも感じた。
両親を眼前で殺された孤児や姥捨山に放置された老人らが、信頼できる者同士で身を寄せ合い生きる姿や、派手めに噴出する血しぶきに、一見平和な時代に対する批判的な視点が感じられなくもないが、時代劇としてもアクションとしても、あまりにゆるく中途半端。恐妻家に見えて実はラブラブ夫婦を好相性で演じる徳永と宇野や動作機敏な子役たちに、「インクレディブル・ファミリー」忍者版のような可能性の片鱗も見受けられただけに、もっと緩急をつけるなど高みを目指して欲しかった。
観る者には小出しに示される、加害者の動機のようなものが、被害者の両親には共有されていない事実が終盤近くに発覚し、三者それぞれの心情の辻褄合わせのごとき作業を強いられるのは難。とはいえ、自暴自棄に生きてきた少女Aが罪と真摯に向き合い、更生への糸口を懸命に探る成人に変貌する空白の7年を想像させる、松浦りょうの内省的な巧演は目を奪う。判決がどうであれ、悲痛な事件の余波を生き続ける人びとの苦悶は消えないことを、カタルシスを拒む法廷劇に落とし込む力篇。