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ヒロインの潑剌さに心奪われる。いきなり走り出し川へ飛び込む。生意気で気が強くて頑固。男もまた曲がったことが嫌い。正義の人。仕事には妥協を許さない。若い頃引き裂かれた二人が再会する。彼女の一言で意地になってエッフェル塔を立てることを決めたり、なんだかんだと翻弄される男がかわいい。結婚してるから行けないと言ってたのに、結局行っちゃう彼女がいい。気持ちをぶつけ合うようなセックスもいい。ただ出会って好きになっただけなのに、うまくいかないもどかしさ。
少年が公園のベンチでワクワクしながら本を開く。その顔が嬉しさで輝いている。少年と古本屋の主人との交流は本を通して行われる。どんな本を貸してやろうか、考えているときの彼の顔は喜びに満ち溢れている。話はほとんどこの本屋の中で展開する。彼の私生活は描かれない。客とのやり取りの中でどういう人生を送ってきたかがわかる。後半、少年とのやり取りがヒートアップしていく。だんだん難しい本になっていく。少年もいっぱしのことを言うようになる。不意に涙が出た。
マイヤ・イソラは相当変な人だったと思う。19歳で結婚して娘を産む。母親に預けて自分はデザインの学校に行く。ずっとあちこちを放浪し続け、娘とも離れて暮らし、ただひたすらデザインという仕事に没頭していく。仕事しかない人。孤独だったろうと思う。娘に宛てた手紙がいい。我が子と一緒にいられない苦しさを全然出さずに、淡々と旅の様子を伝える。いろんな男の人を好きになったり、急にわがままを言ったりめんどくさい人だけど、時代の先頭を走っている人の覚悟がある。
新作が撮れない映画監督。今まで撮ってきた映画もパッとしない。悩みは仕事だけじゃない。家庭もうまくいっていない。関心のない夫に減らず口を叩く息子。バイトで昔の映画の修復作業。失われたフィルムを探す旅。かつて編集部だったおばあさんが久しぶりにフィルムを手にしたときの高揚した顔が忘れられない。車の中で自殺した女性。潰れかけの映画館。幽霊の声。そこここに死の匂いがする。修復作業は死んだものを生き返らせる作業。彼女がだんだん図太くなっていくのが面白い。
別れたあと何年も経ってお互いに同じ気持ちでいられることは奇跡だ。そうじゃなきゃ映画にならないわけだけれど、結ばれない恋物語と、簡単には進まないパリのシンボル・エッフェル塔建設についての舞台裏と、逆風だらけのはずなのに、始終穏やかな時間がこの映画には流れている。結婚するギュスターヴ・エッフェルの娘とパートナーの存在が希薄で少しもったいない。この映画を見終わって残るのは愛するアドリエンヌの笑顔だというのは、成功しているということだろうか。
物語のほとんどがアットホームな本屋さんのなかで繰り広げられる。登場人物たちの背景、人間関係、街の顔などはそこまで深掘りされていないものの、まるで絵本を読み聞かせられているかのような心地よさがある。登場人物たちのキャラクターが典型的すぎることと、ラストで主人公リベロが迎える結末には若干疑問が残るものの、本作を大人になった今どう観るかが問われているような気がした。書物が並んでいるというだけでエネルギーに満ち溢れている。その前では大人も子供も平等だ。
あの大胆な色づかいやデザインのその向こうに秘密の花園を見つけたような気がした。深く静かであり同時に情熱的な側面をもつマイヤ・イソラの生み出してゆく世界に魅了される。若くして産んだ娘クリスティーナに語りかけられる言葉の数々、そしてクリスティーナ自身の言葉がちりばめられ、マイヤのデザインがアニメーションで動き出す。母娘の関係性が本当に素敵だ。アーティストとしての鋭い眼差しと、いまも愛されるデザインの原点に触れられる、とても心躍る貴重な一作。
「女は30過ぎたら書き手としてつまらなくなる」「結婚したら女優として使いづらい」そんな呪いの言葉が蘇る。女がタバコを吸うだけで検閲によりカットされた時代、どれだけ女性が映画監督でいることが大変だったか。子の存在を同性の仲間にさえ隠さなければならないなんて。過去に思いを馳せながら今を生きるジワンが映画の音声修復をめぐり奮闘する。取り壊し寸前の映画館、カットされたフォルムを繋ぐシーン、どの瞬間も優しく強いリスペクトと映画愛に満ち溢れた傑作。
下世話な映画である。まさかとは思ったが、「エッフェル塔は屹立する男根である」という主張に終始している。300mの塔のデッサンを描くエッフェルは呼吸を乱し、アドリエンヌとの出会いを回想して垂直に聳える紙上の塔を見据える。この序盤のくだりの露骨さ。山場として設定されるのは第一展望台完成の場面。これがなぜか穴に棒を通す儀式と化している。何をかいわんやだ。監督のセンスのなさは救いがたい。「肉体の冠」(52)に目配せするならそれに見合った品格が必要だ。
クリシェの再生産はときに微笑ましくもあるが、基本的には害悪だろう。これまでそう考えて生きてきた。古書店を営む白人の老人に、お金がないから本を買うことができないというアフリカ系の少年。老人は少年に本を貸し、講釈を垂れる。私としてはもうこれだけでかなり嫌悪感を催すのだが、最後に一番大事な本として渡されるのが『世界人権宣言』なのだ。私が君たちに人権とは何かを教えてあげよう? 植民地主義の反省はどこへ行ったのか。悪はいつも善意の顔をして近づいてくる。
年上の男性と若くして結婚し19歳で娘を出産するも、すぐに離婚。娘を母親に預けて大学に進学、卒業後はデザイナーとして活躍し、世界中を自由に旅しては絵を描き、次々と恋をした。そんなマイヤ・イソラの奔放な人生は、と、ここまで書いて、自分がいかにジェンダーバイアスに囚われているかに気付いて愕然とする。「子供を預けて」「自由に旅し」「次々と恋をする」のが「奔放」?これが男性芸術家なら同じ形容を使うだろうか。むしろこの点はありふれた芸術家像のはずなのに。
シン・スウォン自身が韓国映画初の2人の女性監督の足跡を辿る内容のドキュメンタリーを2011年に監督しており、本作はそれを基にした作品だという。「女判事」も実在する映画とのこと。映画史のミッシングピースを埋める作業こそが新たな映画作りそのものなのだ。頼りになるのは田舎で隠退生活を送る編集者の女性。まな板が編集台となり、フィルムの断片がつなぎ合わされる。シーツはスクリーンとなり、かたや廃墟と化した映画館のスクリーンは路上を映す鏡となる。知性の輝き。