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建国記念日が制定された1967年、寺山修司は日の丸についてインタビューのみの番組を制作し問題になる。今それと同じ質問をぶつけたら。55年前の闘いの拡大再生産。日の丸君が代天皇国家戦争安倍晋三自分自身脳内リスクで身動きとれない表現、そのすべてに対して向けられる刃。よくこんな企画を通したものだ。テレビ局もやれば出来るじゃん。クレジットが終わっても席を立たないで。「ゆきゆきて神軍」以来の危険な大傑作。TBS、深夜でいいからテレビでやってほしい。やるべき。
ダメと思ったらいつでも全部殺処分しますからと農水省が簡単に言う。だからナオトは残された生き物の面倒をひとりみる。自分も原発に関わった。その贖罪もあるのか。8年に亘る密着。政府の無策。安倍昭恵のサイン色紙。観客のいない聖火リレー。描かれるのは原発で潤った町の末路だ。ナオトの口から出る原発再稼働容認の衝撃。福島も原発も続いている。中村さん、いい仕事をしたと思う。福島の映画を撮っていて助かった。じゃないと恥ずかしさで死ぬところだった。いや、また撮らねば。
東日本大地震から12年。この時期に311モノをちゃんと公開するのは素晴らしい。しかも最近は長期に亘って取材したものが多い。本作は10年。なかなか出来ることではない。取材対象の民宿も女将もいい。だから敢えて書くが、映画を撮るならちゃんと映画を撮らないと。雄弁過ぎるナレーション、饒舌過ぎる描写。なのに、登場人物の「なぜ」に全く迫れていない。極めて悪いテレビ的というか。テレビが悪いと言っているのではない。テレビにはテレビ、映画には映画の佇まいがあると思うのだ。
自身の原作を自身の脚本で監督する。脚色は原作に縛られ、演出は脚本に縛られなかったか。そうとしか考えられない無惨さ。現実と幻想の境界の曖昧さを、自分が見ている時以外の相手は分からないと言い訳しないでキッチリと描くべき。「ツィゴイネルワイゼン」はそれをやっているから傑作なのだ。水中で吐き出す空気の効果音では何も表現出来ない。行定さんは何も言わなかったのか。一人三役だからこそちゃんとした外部の批判と指針が必要なのに。好きにやれは優しさでも何でもない。
「日の丸といったらまず何を思い浮かべますか」。1967年と同じ質問を2022年に街頭で投げかける。何より違うのは回答者の視線だ。67年は多くの人が戸惑いながらも、聞き手と正対し、聞き手の目を見て、それぞれに自分の言葉で語ろうとする。22年はほとんどの人がカメラを意識し、どう報じられるのかを気にしている。そんな時代に街頭インタビューは成立するか? 答えはイエス。この反応、この態度が今の日本人の姿であり、この映画はそんな群衆を映し出す鏡なのだ。
松村直登さんはなぜ今も一人で富岡町にいるのか? 我がことのように考えさせられた。誰に求められているのでもない。自分の意志でそこにいる。震災直後に目の前の動物たちに餌をやり始めたときは、理不尽な国の施策への抵抗の思いもあったろう。その後も、蜂を飼い、鶏を飼い、水田を作る。やっぱりそれも理不尽な体制への抵抗なのだと思う。道路や港はできても、人はほとんど戻ってこない。「復興」というお題目ばかりで、形はあっても実を伴わない。そんな理不尽さへの怒りだと。
深い悲しみと再び動き出す力とが映っている震災ドキュメンタリー。津波で自宅が被災し、海難事故で家族を失い、民宿がコロナ禍に見舞われる。そのたびに持ち前の明るさで再起する菅野一代さん。彼女にひかれて集まった多くの若いボランティアたちが唐桑に移り住み、仕事を始め、生活を築く。まさに民宿「つなかん」という磁場がつくりだした喪失と再生の物語。一代さんと周囲の人々の折々の表情を10年以上も追い続けたディレクターの取材の成果が豊かに実っている。
出会った女に導かれるように、男が自分探しの迷宮へと入り込む。よくある筋立てを具体的な強い画で見せようとしているのはわかる。他人の口腔内をのぞく歯科医の双眼ルーペといい、まるで温室のように観葉植物が生い茂る部屋といい、カギのかかっていない突き当りのドアといい、ベランダの錆びた物置といい。ふわふわとして謎めいた馬場ふみかとは対照的に、現実を直球で突き付ける河合優実の存在感も貴重だ。ただ才気走った画に人物の心理がついていかないうらみがある。
あまりにも状況の異なる放送当時と現在とのあいだに無理やり共通項を見出す新人監督が、信奉する寺山修司の実験的かつ確信犯的な試みを闇雲に再現しようとする、思いつきにも似た発想に疑問を覚える。さすがに途中で限界に気づいたと見え、寺山を知る関係者たちの裏話へと切り替わるが、期せず批判の矢面に立たされ、音信不通となった女性インタビュアーの不在が、寺山の挑戦の負の側面を曖昧にし、番組の功罪を再検証する上でも、重要なピースが欠落しているように思えた。
原発事故を機に生まれた根拠の乏しい膨大な造語の矛盾を、“警戒区域”にはじまりコロコロ形容が変わる富岡町で、見捨てられた動物を世話して独り暮らし続けるナオト氏が、まざまざと体現する。最後に自身もカメラ前に立つ中村監督の、終わりなき原発問題を作品として強引にまとめようとしない誠実さが、監督も含め大半の予想を裏切る、震災前後を肌で知るナオト氏ら当事者ならではの衝撃発言を引き出したふうにも思え、その結果、“復興”とは何かをも問う、ズシリと響く仕上がりに。
東日本大震災など、ある種の悲劇が出逢いやご縁を紡ぎ出す10年間を、丹念に追う。予期せぬ事態に次々と襲われ、とびっきりの笑顔が曇っていく一代さんと、彼女に救われてもきた学生ボランティアが、“あの日”を胸に刻みながら新たな幸せを模索しつつ支え合い、関係性が深まり広がっていくさまが、流れゆく歳月の中で、しみじみと映し出される。終盤に突如として登場する某著名人にウェイトが傾きかけたせいで、作品のバランスに乱れが生じて見える点が、少々気にはなったが。
来る者は拒まぬ彼女の思わせぶりで引っ張るが、尺は延び疑問符ばかり増える。彼女を作品のモチーフにするなど、ただならぬ関係と思しき親友の参戦が、第二、第三の男の影を匂わせ、さらに事態を厄介にする。互いに分かり合えぬ恋愛の不可思議を、自身さえ掴みあぐねる主人公の目線に徹して紐解く意図は分かるが、彼が惹かれる彼女の特別さを表現しきれていないからか、次第に常軌を逸する彼の行動も、心のつながりを求める愛よりは即物的な執着の産物に見え、情感まで半減した印象も。