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監督のモリコーネに対する愛情が過剰すぎて笑ってしまう。ストレッチをするモリコーネの顔のどアップ。何やねんこれ。モリコーネの生まれてから死ぬまでをもの凄い情報量で描く。何十人にもわたるインタビュー。どこから見つけてきたのかわからないぐらい大量の映像や写真が挿入される。数々の名作の裏側を覗き見る。モリコーネが今まで作った曲を手振りと発音で再現する。子供みたいに没頭する姿がイカレてる。アカデミー賞が取れなくて悔しいとか俗だけど実にキュート。
メキシコの何気ない街の風景が怖い。車の荷台に乗っている軍人の銃が怖い。母が目をひん剝いて街をさまよう。車の中からのショットが不安を煽る。優柔不断な夫は自分のことしか考えていない。金だけ取られて娘は帰ってこない。物語はどんどん予想を裏切っていく。手を組んだ軍人も胡散臭い。誰も頼れない。自分でやるしかない。彼女がカバンからピストルを取り出したときにはドキッとした。撃たないでくれと祈る。母の聖戦は孤独だ。どこにもたどり着かない。胸が苦しい。
続々と人が集まってくる。そして静かに会議が始まる。何でこんなにユダヤ人を抹殺しなきゃいけないのかよくわからない。出席者たちはそれが当然であるかのように粛々と殺し方について話し合う。みんな俺が俺がで自分の管轄がいかに大変か自己主張する。ヒーローみたいな格好いい人は誰もいない。会議の席順とかにこだわるセコさも普通の人すぎて逆に怖い。ヒトラーの人を懐柔するテクニックには舌を巻く。正義と思い込んだ人間が才能を発揮するとこうなるのか。ただただ怖い。
小さな港町が舞台。主人公の男はやたらみんなから挨拶される。地元の人たちから好かれているのがわかる。いいやつだ。義理と人情の板挟みになる。良かれと思ってやったことがことごとく裏目にでる。どっちを取ってもダメっていう状況設定はよく練られている。先が読めない。どんどん追い詰められていく男。さてどうする? 目が離せない。おっさんがバカでかいナイフを若者の腹に突き立てる。暴力描写はひたすら残忍。血の匂いがしてくる。アホな男たちはアホから逃れられない。
映画音楽の素晴らしさを実感し、堪能することのできる優雅で豪華な一作。そうか、これもモリコーネだったな、などと思い出したり発見したりしながら、わずかなシーンを見るだけなのに思わず何度か涙ぐむ。映画に愛されることは間違いなく才能だ。映画音楽家という存在になることがモリコーネの「夢」ではなかったとしても、その存在に感謝せずにはいられない。本作の監督であるジュゼッペ・トルナトーレ自身がインタビューに登場するのも微笑ましい。映画がもっと好きになる映画。
母は強し、とか、女は強いとか、そういう言葉をこの映画に対して絶対に使いたくないと思った。自分の娘が生きているのかさえわからない状態で、それでも生きていかなければならない。自分が生きていなければ娘を見つけ出すことは絶対にできないからだ。危険のなかに自らずんずんと突き進む、生きる覚悟が焼き付けられている。ここにあるのは怒りの共闘だ。モデルになった女性の話から、これを映画にしなければと思った監督の使命感を、強い光を宿した母シエロの瞳から感じ取る。
いかに効率的に、いかにコストがかからないようにユダヤ人を「駆除」するか。およそ人間に対して使うとは思えない言葉が繰り返し発せられる。これはエイリアンたちの会話だ。人間の姿をしているが人間の会話ではない。残虐シーンはひとつも出てこないのに、淡々と行われる会議の恐ろしさに見ていて吐き気を催した。すごく精神的にくる映画であった。ヒトラー不在の中、すでに答えの決まった会議に観客は参加させられる。これ以上戦争を始めないためにも、あの吐き気を忘れない。
やくざ映画の面白さとは何かということを少し前にずっと考えていて、いまだに答えが出せないままでいる。冒頭の演歌調の音楽の使い方など懐かしさがあり少しテンションがあがったものの、基本的にバイオレンスシーンが続き単調。施設育ちの仲間や恋人との関係などなど、人物像やストーリーに目新しいものがあるわけでなく、むしろ希薄な感じさえしてしまう。一匹狼の魅力的なキャラクターは国に関係なくこれまでも描かれてきた。新たなやくざ映画を現代に作るのは難しいのだろうか。
2001年の9・11に関する記録映像の引用の仕方に、しばし戸惑う。こんなに次から次へと痛ましいものを見せる必要がはたしてあるのかどうか。WTCに突っ込む飛行機。ビルから飛び降りる人。路上で粉塵にまみれ、慌てふためく群衆の姿。そして、崩れ落ちるタワー。観客にショックを与えるための、派手な効果を狙った「恐怖のスペクタクル化」? トルナトーレの品のなさが図らずも露呈している。彼はモリコーネ音楽のある種の雄弁性をこういうふうに理解しているわけである。
原題は「市民」。その邦題が、なぜ宗教的な概念である「聖戦」になってしまうのか。しかも、「聖戦」といえばいまではイスラームにおけるジハードをすぐさま想起させる単語でもある。この映画は、警察でも軍人でもない、ましてやマフィアでもない民間の一般人の女性が誘拐された娘を探すために奔走するという話なので、邦題は内容にそぐわない。「母」はともかく、メキシコが舞台なのにどうして「聖戦」なんて言葉が浮かんだのか。この一語でどういう観客層に届くのかを考えてみる。
原題は「ヴァンゼー会議」。コピーも本来は「人類が戦争に負けた時」で、会議の議事録を基にした、いたって真面目な室内劇にして会話劇。見終わってみると、日本版の宣伝から想像されるものとはまったく異なる印象を持つだろう。交わされる会話は議事録そのままではないにせよ、役人同士の意地の張り合いから殺人の分業体制(効率上昇と処刑人のPTSD問題の解決)まで、主題はすべて出揃っていたわけだ。ショットの積み重ねとして作品を構成しようという意志に貫かれた一作。
そもそも設定に無茶があるのではないか。物語は類型に沿うもので、その点はジャンル映画においてはむしろ美徳でさえあるが、過酷な試練を通して人生を学び、幼馴染みに手を下し、ついには父殺しを経て一人前になるという、この「大人になるための通過儀礼」の主人公の年齢が40歳なのだ。結果、過去といえば30年前の養護院の思い出ばかりで、20〜30代の記憶を欠いた、経験に乏しいいびつな中年男が出来上がる。「40代もまだ若い」というエールなら喜んで受け取るけれど。