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男が部屋から出てきて車に乗り込もうとする。建物を見上げていきなり歌い始める。なんだこれ? ノリがいまいち摑めない。応えるように女も歌で返す。男も女もめちゃくちゃ歌がうまい。二人の歌を聴いているとだんだん乗ってくる。これはこれで能天気に楽しい。離婚前夜のギクシャクしたキツイ会話。結婚前夜はあんなに楽しそうだったのに。10年でこの違い。ずっと耐えている息子が可哀想だった。男と女の好きとか嫌いとかホントどうでもいい。二人とも勝手すぎるよ。
これ誰が撮ったんだろう。大学構内で次々逮捕者が出て、追い詰められていく状況を余すところなく捉えている。撮っているやつらは逮捕されなかったのだろうか。最後の最後までカメラは回り続ける。中にいるやつらの顔は全部モザイク処理されているが、それぞれの顔が見えるようだ。彼らの言葉が突き刺さる。どこかユーモアもある。「本当は怖いんだ」と語る若者が持ってる武器が弓矢!だったりする。みんな若い。青春真っ只中。防毒マスクで抱擁する彼らの姿がいつまでも残る。
猫たちがみんな太っている。毛並みがいい。ちゃんとご飯をもらっているのだろう。のびのび遊んでいる猫たちを見ているだけで微笑ましい気持ちになる。廃墟になろうとしている巨大団地。どんどん人がいなくなる。取り残された猫たち。彼らの日常。猫の目線で街を覗き見しているようなドキドキがある。薬屋のおじさんが猫たち一匹一匹の性格とかよく知っていて、あだ名をつけて可愛がっているのを見ると、猫がいるだけでずいぶん救われている人がいるのだろうと思う。
やることなすこといい加減。どうしようもないダメな父親。でも憎めない。ショーン・ペンはこういう役がよく似合う。娘と父親の話。ストーリーはここからブレない。母親や弟の話は置いといてひたすら父との関係を描く。娘が母親の元を出て父親のところへ行く。張り切って働き始める父親。彼のスーツケースは空っぽ。密かにジーパンを伸ばす機械を売っている。なんだよそれ! 胡散臭いにもほどがある。ハッパは絶対ダメだぞと言いながら隠し場所を変えられて激怒する父親が可愛い。
格段仲がいいわけでもない知人たちとノリでカラオケに行ってしまい、一方的に延々と歌を聞かされる。歌はうまいのだが、いかんせん音楽の趣味が合わない。お酒を頼んだところで酔うどころかどんどん醒めてくる。この時間は一体何なのだろう……。そんな気分になる映画だった。映像もどことなくカラオケ背景のように思えてくる。2006年に初演のミュージカルとのことだが、目新しさのない恋愛観・家族模様からは、すでに古臭ささえ感じさせ“普遍的な愛の物語”とは言い難い。
掠れゆく叫び声が飛び交う。誰を信じていいかわからなくなってくる。ああ、ここは戦場なのだ。日に日に弱ってゆく身体と、迫りくる心理的な限界。香港民主化デモに関するドキュメンタリーは多く作られてきたが、思想を訴えるのではなく、とことん、そこで何が起こっていたかという実態に迫っている。カメラが捉える緊迫感からは目が離せない。香港理工大学包囲事件の渦中にいたという匿名の監督たちによる、まさに命懸けの撮影。いつか彼らが名前を明かせる日がくる世界を願う。
飼い猫ではなくて団地猫。ペットではなくご近所さん。250匹もの猫たちが暮らしているトゥンチョン団地から、彼らの新たな移住先を探す軌跡を追う。自然体で映る猫たちには、人間とは違う時間が流れている。一方で、解体されてゆく巨大な団地群の様子は人間の時間を映し出す。そのふたつは異質だが、交わらなければならない瞬間がくる。猫にとっての幸せとは一体何なのか? そこからはじまる、人間たちの暮らしや未来を模索するこの物語は、厳しくも優しさに包まれている。
時代ごとにレンズを使い分け、フィルムを駆使したという本作の撮影。変わりゆく映像の質感からは、この映画がもつ本質的な愛情の深さが伝わってくる。ショーン・ペンが監督し、娘のディラン・ペンと息子のホッパー・ペンと共演した正真正銘の家族映画なのだが、それがとことんいい方向にいっている。父親のどうしようもなさに焦点を当てるのではなく、娘の視点で世界を見つめることで複雑な感情がより生きてくると同時に、忘れがたい思い出の数々が宝物のように煌めきはじめるのだ。
字幕では「独裁者」と訳して処理していたが、相手を非難するときに「ホー・チ・ミンのように振る舞う」と口にしていて驚いた。恵まれている人たちの悩みにこんなに延々付き合わせる映画もいまどき珍しいが、これが時代錯誤のブルジョワ賛歌の反共映画だとしても、ホー・チ・ミン? まさかポル・ポトと間違えてるとかじゃないよね? 単にいけ好かない人たちがいけ好かないことを言ったりしたりしてるだけのお話に見えるんだけど、ミュージカルなので耳に残ってしまう。ラララ♪
運動を内側から撮る。それは最終的にデモ隊たちの内面を、つまりは心の中の葛藤を撮ることに向かっていく。この階段をのぼるか降りるか。重大な決定の前で判断ができなくなり、動きを止める二人を捉えたショットは、「理大の階段」として語り継がれていくだろう。銀色のエマージェンシーシートが舞うラストショットも忘れがたい。人を寒さから守るはずのシートが誰もいない空間のなかで空しく宙を舞っている。不在のアレゴリーとおぼしき無人のダンス。だが、何の不在か。
猫、家、女性のコミュニティ。チョン・ジェウンの関心はずっと一貫している。団地の再開発にともない、居住空間は再編成され、コミュニティもまた生まれ変わる。だがそれは人間だけの問題ではない。そこは住人たちが育ててきた大勢の野良猫の住処でもあるからだ。2年半にわたる撮影は、猫の視点をいかにして獲得するかという探究でもあったろう。前作「エコロジー・イン・コンクリート」(17)と対をなすというから前作も見たいが、今作の9時間超のバージョンも見たい。
監督が主演を兼ねるといかにも自画像に見える。娘の役を実の娘が演じ、父への愛憎半ばする感情に焦点が当てられるとなれば、なおさらだろう。だが、本作をショーン・ペン個人の自意識の問題に帰しては本質を見誤る。星条旗制定記念日に生まれた、偽札事件の犯人。主題はあくまで「アメリカーナ」であり、その偽物である。父が回していた8ミリの映像が何度も引用されるが、父のいない場面でも8ミリが流れる。不思議に思うや、カメラを回す友人が映る。このあたりの律儀な真面目さ。