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ミニスカートの大ブームをリアルタイムで知っている身としては、モデルのツイッギーちゃんをもっと見たかった。彼女がほとんど出てこない。ブームの中心ではあったものの、ミニを着用していたのは4年間だけだった、との言葉があり、そうだったかと今さら知る。「ラストナイト・イン・ソーホー」辺りからなのか、スウィンギング・ロンドンをテーマにした映画がどっと増えた。画面がオシャレで絶対のお薦めではあるが、ファッション産業に興味がないので★は伸びない。ごめんなさい。
主人公の画家の絵は、精神疾患の進行につれて画風が変貌する典型的な例として昔から有名だが、最近は不用意にそういうことを言うと怒られる。学者が推測で制作年代を勝手に特定した疑惑が浮上している。映画を見るとそっちのギザギザした抽象的なタッチの画風は一瞬しか出てこない。元祖キモカワイイ系の前半生の絵はたっぷりフィーチャー。ところで映画では主人公の名前は「ルイ」とあえてフランス風に発音されているようだ。意図的な処理だろうが。撮影がベラボーに美しい。
同性カップルの結婚を認める「シビル・ユニオン法」を寿ぐ企画というのはすぐに分かる。啓発的で実に良い。大金持ちの老父の、中年男性との再婚を認めたくない娘がほぼ主人公、というのも分かる。ところがこの娘さんの頑なな心情の根拠が全然わからない、という不思議な映画。法律制定は積極的に支援したものの身内じゃちょっとというんだが。徹底した嫌がらせを執拗に描き、普通に見ているとどうしてこんなあくどいことを彼女がやらかすのか、そっちがかえってヘンな気がする。
ここ数年、気になっていた浮き彫り彫刻が教会場面でドンと出現し、驚く。プレスで“シーラ・ナ・ギグ”という名称を初めて知った。なぜ気になっていたかというと、これは古事記に出てくるアメノウズメノミコトの陰部露出(そのおかげで世界に陽光が再来する)に通ずるイメージだから。洋の東西問わずエロ本屋さんの女神みたいな存在はいるのだ。しかしこの映画では和合を祝うのでなく、禍々しい単性生殖の極限として解釈され、クライマックスに現れる。ここだけでも必見の価値あり。
母が愛用していたため幼い頃から身近にあった「マリークヮント」がイギリスのブランドにもかかわらず、とくに日本で支持されているらしいことは肌で感じていたが、本作はその点にも触れている。マリー・クワントのトレードマークであるミニスカートが、当時いかに革命的であったか。そんなミニスカート姿で生き生きと闊歩する女性たちを映し出す本作は、性差別の視点で見ればファッションの自由が十分得られているとは言い難い現代日本でとりわけ切実に受容されるかもしれない。
シリアスな題材をあたたかみのある映像で美しく仕上げている。しかし3日間に焦点を絞った伝記映画であるパブロ・ララインの「スペンサー ダイアナの決意」の直後に観ると、より長いスパンでその人物の生涯を描く手法をとる本作はひとつひとつの挿話が薄味で、ウェルメイドではあるもののどうしても物足りなさを禁じ得ない。「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」など、風変わりな役柄を演じさせたらベネディクト・カンバーバッチは言うまでもなく巧いのだが。
高齢の男性カップルが直面しうる苦難や障壁を厳しい現実的なまなざしを持って問題提起してゆく……のではなく、あくまでも陽気さを保ったまま、彼らの同性愛が家族関係の至る場所へと飛び火しててんやわんやになる様が描かれる。そんな中で時折、台詞がめっぽう鋭い。「幸運の女神」などのフェルザン・オズペテク作品の系譜にあるようなイタリアのゲイ映画を想像すれば、この映画の輪郭を素描しやすいだろう。「笑ったり泣いたり」ではなく、あくまで「泣いたり笑ったり」なのだ。
女性が受けうる差別や加害などを、露悪的なまでに暴き出すアレックス・ガーランドの新作は、宗教的な寓意とルックはダーレン・アロノフスキーの「マザー!」を彷彿とさせ、デイヴィッド・リンチの「ブルーベルベット」のように蠢く不気味さを孕み、ラース・フォン・トリアーの「アンチクライスト」からの引用をも厭わない。過去作である「エクス・マキナ」をフェミニズム映画として捉え、それを踏まえた上で観ているかどうかによってもかなり印象が変わりそうな劇薬的な映画である。
第二次大戦までフランスのひとり勝ち状態だったファッション界に一石を投じたイギリスのファッションは父権的な社会制度への批評意識が織り込まれていることが大きな特徴である。そんなイングリッシュ・デザイナーの代表格であるマリー・クワントの服を着ることはすなわち女性たちの社会への態度表明でもあった。マリーのキャリアを追うことでいみじくも戦後イギリス文化史があぶり出されるという構造は前回取り上げた映画「ブリティッシュ・ロック誕生の地下室」とよく似ている。
作者が正気を失うにつれてサイケ調になっていったとされる一連の猫の絵で有名なルイス・ウェインの自伝。こだわりの映像技法を用いてスタンダードサイズいっぱいにおさめられたカーニバリッシュな世界が良いときのテリー・ギリアムを想起させる。ベネディクト・カンバーバッチはいつも通り素晴らしく、脇を支えるひとくせもふたくせもある女優たちがことごとく魅力的なので、女系家族が一堂に会するシーンはいずれも見どころだ。当然ながら狂気は我々の外側でなく内側に存在する。
結婚を考えている中高年の男性カップルがそれぞれの家族を集め理解を求めるが、というお話。軽妙な芝居を照らす、いまどき珍しい「明るい」ライティングはイタリア映画の技術力の高さを見せてくれるし、決して編集で困ることがないであろうカット割りとカバレッジの多さから推測するに、予算も相当かかっているのだろう。ともあれ、こういった物語にありがちな、人それぞれの都合を見せてからのなんとなく家族との和解が成立しました、という展開からのもうひとひねりが欲しかった。
ヒロインが受ける男性的暴力の歴史に実在論やポスト・ヒューマン的世界認識が絡んでくる。それにしてもアレックス・ガーランドという映画作家はつかみづらい。才気走った演出力やカット割りの精度があるわけではなく、脚本家出身のわりには構成力があるわけでもない。ただし、毎作品必ず一箇所は忘れがたいシチュエーションと強烈なオーディオ・ヴィジュアル体験を用意している。たとえ一瞬であってもそのような体験をもたらすことが出来る映画作家はいま世界にどれほどいるだろう。