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いろんな映画があっていいと思う。活弁付き新作無声映画があったっていい。でも、どうして無声映画なのか、どうして活弁なのかが伝わってこなかった。そもそもなぜ無声映画と活弁が好きなのかも。このスタイルを選択するということは、今の映画のありように何らかの息苦しさを感じているからのはず。なのに、その批評は微塵も感じられない。寓話というのも何か語るべきもののメタファーのはず。それも全く読み取ることが出来ない。84分が長い。スタイルの前に映像と物語の強度をまず。
深川栄洋を観るのは長篇デビュー作の「狼少女」以来だと気づいた。それほど、僕にとってはどうでもいい映画を撮る「撮り屋」さんだった。しかし、こんな切れ味のいいナイフを懐に隠していたなんて。不幸を凝縮したような地方都市に住む中年女性。こんな人、たくさんいるはずと思わされるリアルさ。そこに自己責任など入り込む余地はない。世間の無関心と悪意。その着地点が出家じゃイヤだなと観ていると、思わぬオチが。久しぶりに「あ」と声を上げてしまった。培った技術。映画を観た。
舞台となった2020年11月を想う。コロナにも結構慣れて、閉塞感もわりと薄かったような。それ故か、どこか薄ぼんやりした群像劇。重いことも軽く言う、または言わない。そういう若者たちでドラマを作るのは難しいと言えば難しい。しかし、せっかくコロナ禍のリアルを描くなら、ちゃんと取材して生きた人物を描けなかったか。なんか頭の中で書いた台詞ばかりで。いや、頭で書くんですけどね。役者はみないいのに。そしてまたAFF。散歩とか言ってないで、ちゃんと苦しんで作ろうよ。
ついに城定秀夫が佐藤泰志の世界までモノにして、と書こうとして、待てよ、これは城定がピンクでずっと描いてきたことと地続きではないかと思い直す。傷ついた人たちの再生は王道だが、微妙な匙加減を間違うととんでもなく陳腐なものになるのは数多の映画が証明済み。脚本も上手い城定が高田亮に脚色を託した意味と意義。山田裕貴と松本まりかがこんなにいいなんて。森優理斗は天才。これも脚本と演出の力なのだろう。「恋のいばら」も面白かったし、城定快進撃はいつまで続くのか。
チャップリンもキートンも自作自演、つまり監督であり脚本家であり主演であったわけだから、コメディエンヌをめざすという辻凪子が監督・脚本・主演で無声映画を作ったとして何の不思議があろうか。映画が身体表現であることを身をもって示し、そこに作家性を刻みこむことに何の不都合があろうか。「映画がなかったら僕は何なんだろう」というつぶやきが耳に残るのは、チャップリンやキートン作品同様にこの作品も個人の創作意欲と映画が幸福に出合っているからに違いない。
深川栄洋の原点回帰というより、「櫻の園」の宮澤美保の久々の主演作として記憶に刻まれそうだ。地方に住む認知症の母親の介護のために婚期もキャリアも逃した40代の女性。その一筋の光であった不倫の代償としての転落物語。殺人容疑をかけられ、秘密を暴かれ、暴行され、車にはねられ、失明する。石を投げられ、貶められ、いじめにあい、家を失う。まるで現代の「西鶴一代女」だが、社会の陰湿さという点ではもっと救いがない。行き着く先は「空」の思想ということか。
コロナ禍によるステイホームの状況の中で生きる人々の群像劇。ホームパーティーを開いたり、フードデリバリーで働いたり、学校行事がなくなったり、帰省できなくなったり。ありがちな設定の中で、それぞれにもどかしさを感じている人々が、流星雨の夜に空を見上げる。コロナ禍を描いた映画が濫作される一方で、生々しかった蟄居の感覚は次第に薄れてゆき、あとに残るのは人物一人ひとりが抱える心の重さしかない。この作品が凡庸なテレビドラマのように軽いのはなぜだろう。
離れのプレハブに寝起きする男と、母屋に幼い息子を連れて転がり込んできた女。売れない小説家と職場の先輩の別れた妻との微妙な関係が、微妙な空間の中で発展する。佐藤泰志の世界は、たとえ函館が出てこなくとも、そうした特殊な空間が生み出すドラマなのだと納得。そういう意味で佐藤原作映画の中で最も作為を感じさせないシンプルな作品。脚本の高田亮はそこらを深く理解しているし、城定秀夫はうってつけの演出家に違いない。バツイチ同士の男女の渇きと怖れが生々しい。
マーケティングだのコンプライアンスだのを重視し、誰でもそれなりに体裁の整った映像作品を撮れる時世に、敢えて手づくり感満載の奇天烈な題材を初長篇に選ぶあたり、驚嘆ではある。“スペシャルサンクス”に名を連ねる錚々たる顔ぶれに教えを乞い、「月世界旅行」など数々の無声映画を研究した上で、新しい何かを志す気迫は存分に伝わるが、オマージュやパロディの領域に達しているかといえば疑問が残り、何よりも、映画や笑いの素晴らしさに結実していない仕上がりが切ない。
人生の道半ばで両親の介護に明け暮れるも、いつしかその献身のみが、皮肉にも唯一の生きる意味となっていた40代独身女性。見て見ぬふりしたい生々しい現実を突きつける導入部なんて序の口とばかりに、彼女に付きまとい続ける果てなき悲運。“善意”の危うさを一刀両断し、怒涛の負の連鎖に身を委ねることでしか、真の平穏の境地には達し得ないとさえ思えてくる逆説的幸福論が、鬱屈した時代ゆえに救いとなり得るかもしれない、監督と女優夫婦二人三脚の系譜に新たに加わる渾身作。
当たり前のように享受していたことが、いかにかけがえのないものであったかを痛感させられているコロナ禍を背景に、劇的というほどではないが、いつか振り返った際に、何となく記憶に残り続けているに違いない一日を追う、ささやかに見えて意外に壮大な群像劇。新婚早々ピンチを迎える夫婦から、恒例行事の中止で想い出をつくりそびれた中3生まで、ままならない日常を強いられる各世代の男女が、舌足らずも率直な対話を重ねて前を見据える姿に、心がふわりと軽くなる好篇。
興味をそそる座組から想像されるものとは幾分違う爽やかな味わいに、意表を突かれる。子どもが“お荷物”から“かすがい”に進化する、だるまさんが転んだに興じる名場面もあるが、発情期の鳥のごとく求め合うふたりの芯のようなものが曖昧で、恋人に見限られた後も散見する私小説作家の粗暴で粘着質な一面も、ひとり寝が不得意なシングルマザーの弱点も放置したまま、なし崩し的に現状維持をよしとされても、“婚前家庭内別居”の相手が代わっただけで、彼らの今後を憂慮してしまう。