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冒頭、次から次へと人が集まってくる感じにワクワクした。こいつらがこの後どういう活躍をするのか? 予感に震える。いざ戦闘になると、一気にテンションが上がる。いっときも目が離せない。第7中隊のキャラクター設定も際立っていて、それぞれに背景と見せ場を用意してある。友情と正義と戦うしかない悲しみと。ユーモアも残酷さもある。大味じゃない。丁寧な描写と迫力に唸るしかない。監督が三人もいる。ツイ・ハーク&チェン・カイコー&ダンテ・ラムって何なんだ。贅沢。
主人公の女の人は、いい人なんだけど怒りを抑えられず乱暴になってしまうキャラクター。良かれと思ってやったことが、ことごとくうまくいかない。負けず嫌いで、抵抗しまくる。車の中にションベンしたりとか手がつけられない。椅子でガラスを粉砕するところ、最高だった。そんな彼女の少し狂ってるけど切実な思い。ハッピーバスデーの歌声に涙が止まらなかった。彼女のことをわかってくれる人がどこかにいる。それが物語の救いになっている。人物への眼差しがやさしい。
だんだん人が死んでいくのを見るのはツラかった。末期ガン患者の話。否応無く深刻になってしまう。主人公の男はひねくれている。強がったり甘えたりめんどくさい奴だ。先生が来てさっと帽子を隠すのが可愛かった。男は病気だけど結構モテモテで何かムカついた。病院にやってくるダンスする人の生々しい色気とか、演劇学校の生徒の弾ける若さとか、のしかかってくる看護師の恋心とか、生きていくことの喜びが対比のように描かれる。「何も残せなかった」と言う男が切ない。
運び屋の男が、ゴーストタウンを自由に行き来するのが楽しそうだ。みんな家の中にいて、誰とも直接触れ合えない。それぞれの登場人物が徐々にクロスしていく構成が見事だ。隔離された人々の距離感をうまく生かしてストーリーを作っている。ドア越しに触れ合いたくてもできないふたり。彼女を救うため、男はバイクに乗ってあちこち行く。間に合うかどうかのサスペンスにドキドキする。ようやく会えた時の喜び。体と体が触れ合った時の高ぶりがこっちまで伝わってくる。
鳴り止まない銃声と爆音、血が飛び散りうめき声と叫び声が聞こえる。戦争が過剰な音楽で演出される。これが3時間近く続く。画面に映るのは99パーセント以上男性たち。どちらか側に加担した、制限された視点からしか見ることができないなかで、いまこの時代に改めて戦争を描くことについてどう思うのか。スペクタクルだけで押しきって語るのはあまりに無責任ではないだろうか。私は、初めて人を殺した少年の目に英雄性を見出さないし、賛美もしない。簡単に感動なんてしない。
まるで子どもがそのまま大人になったようでバニーを見ていて落ち着かない。時にとても身勝手で、それでもその叫び声からは痛切な何かが伝わってくる。共感力や繊細さにかけるようで、他の人が見て見ぬ振りをすることに気づく。一部の大人のための“社会”に適合するのは難しい。次第に少しでもバニーに不安を感じた自分への苛立ちが募る。だからあえて「応援する」という言葉は使いたくない。ただこの無謀にも思える逃避行を一緒に見届けさせてほしいという願いに変わる。
残された余命の中で、どう生きるのか、そしてどう死にゆくのか。「何も成し遂げなかった」と嘆く主人公の身体は、医者や看護師、母親に優しく見守られながら、季節とともに徐々に弱りゆく。自ら捨てた息子に会いにいくことさえできない。ドヌーヴ演じる母は「息子のため」に身勝手な価値観を押し付けたことを死に際になって後悔する。今年身近な人が癌でなくなっていくのを立て続けに目の当たりにしてきたので、辛い。赦すしかないのは一体誰なのか、疑問が残る。俳優陣が魅力的。
COVIDが悪化している2024年の近未来。すぐそこにいるのに、決して会うことのできない恋人たち。それだけ聞くとロマンチックだ。ただ、ウイルスよりも権力を持った人間の怖さを強調したいのか、あまりにチープな悪役っぷりが残念でならなかった。簡単に戦いの物語へと矮小化されてしまう。こうなるともはや、目に見えないウイルスの怖さはただの設定というか、おまけのよう。本来この物語において、ようやく生身の人と人が触れ合う、感動的であるはずのキスシーンが味気ない。
反米を謳う内容だというのに、できの悪いハリウッド映画の紛い物になってしまう。よくあることだが、これもその1本か。オープニング・クレジットの感じと曲調がどことなくMCU風だと思っていたが、後半に凍った兵士たちが出てきて確信犯かと思い至る。零下40度の極寒の中で敵を待ち伏せし、銃を構えた体勢のまま凍りつき、銅像のようになった中国の志願兵たち。米兵も思わず敬礼する。マーベル映画のどれか忘れたが、エンドクレジットで登場人物を銅像化していたのがあった。
ご都合主義とは何かが知りたければ、この映画を見ればいい。出来事を脚本の都合によって順に生じさせていくことだ。冒頭の家庭支援局の場面から顕著である。バニーがロビーにいると、若い女性が受付でぞんざいに扱われている。そのやりとりが終わると、急に赤ん坊の泣き声が響く。泣き止んだタイミングで、今度はバニーの子どもたちが現れる。全篇この調子。ラストに主題歌の流れるなか、救急車での言葉のやりとりが間奏中で、会話の終わりとともに歌が再開するのも同じ論理による。
他人の死に付き添う。E・ベルコは「演劇」という枠組みを導入することで、この途方もない仕事を理解しようとしている。コンセルヴァトワールを目指す若者たちに演技指導するバンジャマンの姿は、医師が経験や考えを看護師と共有する様子と重ね合わされる。病室は劇場であり、そこでは死という終幕に向かって人生という名の舞台が披露される。歌があり、音楽があり、ダンスがある。医師や看護師はときに演出家として、ときに俳優として、ときに観客として、その上演に参加するのだ。
新型コロナウイルスに対する応答として、こんな手があったかと盲点を突かれた。2024年のLA。致死率56%のCOVID−23が蔓延し、感染すれば強制収容所へ連行、免疫者だけが自由に移動できる。設定だけでわかると思うが、本作はコロナ以前の想像力に支えられている。コロナはディストピアをこういうふうに発想すること自体を一掃してしまったからだ。コロナなんて知らないかのように、ポストコロナを描く。コロナなんかで映画作りを変えてたまるか、とでもいうように。