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高校時代、同性に告白したことを未だに揶揄される主人公がどうしてその土地に留まっているか分からない。遺された旅館のためなのだろうが、それへの拘りも見えない。映画で描かれる時間までの生き方が書かれているようで書かれていない。ご都合設定が積み重ねられていく。20代前半、いくら才能があっても引き出しがそうあるはずもなく、撮ることは出来ても書くことは出来ない。ちゃんとプロデュースする人はいないのか。これじゃすぐ飽きられる。仕事があることは誇れることではない。
白石晃士は相変わらず力があるが、得意のPOV形式がエロを語るのに適していたかどうか。撮影者との関係がわからないから、どうして自らの性まで撮らせるか分からない。百歩譲って主人公はいいとして、他の登場人物はどうか。SMやるなら、撮る側撮られる側の関係性の逆転こそやるべき。主人公の履歴や性遍歴が見えないから、SMと同性愛への枷も見えない。それを超える瞬間のカタルシスもない。ロマンポルノはそういうことちゃんとやってたけど。そもそもこれってロマンポルノ?
虐待父や虐待男の性を含む暴力を甘んじて受け入れる女友達をやはり受け入れる永野芽郁。しかし友達は不意に自殺。即火葬され、遺体との対面も出来ない。本質的に友を救えなかった、救おうとしなかった。だから永野は遺骨を奪って旅に出る。それは欠落した友に自分がいかに依存していたか、自らの欠落を知る旅。ラストの手紙を見せずに成立させるスゴさ。永野の煙草を吸う仕草、生き方まで見えるよう。心の襞の奥まで分け入ろうとするかのような演出。こんな監督に自作を撮ってもらいたい。
今号三本目の女と女の映画。これが一番心に響いたかも。好きだと同性に告白され、あたし、まだ一度も人のこと好きになったことないの、変でしょ、と吐露させるなんて。唸った。それが表現の問題にも絡む。同じ美術部。相手は才能があるけど、自分は何を描いたらいいか分からない。「人と違ってダメなの?」という自己肯定と「自分に生まれて良かったと思ったことある?」という自己否定が同居する。青いけど、むき出しな感じがたまらない。才能ってあるんだと思う。大切にしてほしい。
恋人を亡くした旅人と両親を亡くした旅館の女主人による海辺の町での喪の作業。ほとんど二人の会話だけで押し切ってしまうところに井樫彩監督の潔さと力量を感じる。恋人や両親がなぜどのように死んだのかはあえて描かない。同性への片思いや子供をつくれない体であることも後景にとどめ、二人の喪失感の重みだけと向き合う。夜の海に浮かぶ二人、ゴミ捨て場の酔った二人、山に登るリフトの二人。そんな二人の孤独を浮き立たせる水、光、風。この監督には画面で語る力がある。
生々しい身体が映っている。観念からの解放が映っている。それだけでロマンポルノに挑戦した意味はあると思う。リアルタイムでロマンポルノを見ていた世代がどうしてもその形式の呪縛から逃れられないのに対し、73年生まれの白石晃士監督は自由奔放に撮りながら、このジャンルの核心をグイっと鷲摑みにしている。川瀬知佐子や鳥之海凪紗といった新人女優たちのほとんど素人と思わせるようなリアルな存在感もまたロマンポルノ的。そう、重要なのは考えるより、感じることだ。
生きづらさを抱えた女二人のシスターフッドものだが、片方のマリコは冒頭ですでに死んでおり、すべては残されたシイノの喪の作業として語られる。男たちの暴力に怯え続けたマリコ。そんなマリコを面倒くさいと思いつつ守り続けたシイノ。その暴走ぶりは爽快であると同時に痛々しい。親友の生きづらさを受け止めきれなかった悔恨も含めて、このくだらない世界にたった一人で立ち向かうシイノ自身の生きづらさが、永野芽郁のあられもないアクションを通して鮮やかに立ち上がる。
なにより3人の女子高校生たちを生き生きと撮れている。自意識をもてあまし、他者に苛立ち、ナイフのような言葉で人を傷つけてしまう少女たちを。新人の淺雄望監督は上原実矩、若杉凩、森田想という3人の若い女優を型にはめず、自然な身ぶりと表情を引き出す。少女たちの間に走るピリピリした緊張感、思春期のアンビバレンスを捉える。だから画面から目を離せない。大人たちの造形が紋切り型だし、自分探しの物語も陳腐だが、そんな瑕疵を補って余りある生々しさがある。
亡き恋人が最後に見た情景にふれたいと願う旅人と、幼い頃に亡くなった家族に代わり、若くして旅館を切り盛りする女性。シチュエーションは多彩に、ほぼふたりの対話のみで進行する中で、故人に加えて彼らの秘密や苦悩も明かされていくが、終盤に登場する“第三の女”をめぐる類型的エピソードが俗っぽい違和感をもたらし、優しい想像も織り交ぜつつ丹念に心を通わせ合ってきた男女の物語に水を差す。言いたいことを詰め込むあまり、作品全体のトーンに乱れが生じたように感じた。
プロレスと地下アイドルライヴとSMプレイのあいだに、パフォーマーと客との心身密着型エンタテインメントという共通項を見出し、それを大胆に連動させる発想はユニーク。ただ、白石晃士監督の代名詞ともいえる“モキュメンタリー”の手法は、ホラーには有効かもしれないが、常に介在する第三者の目が、人物たちが味わう興奮や快感をダイレクトに伝える上での支障にもなっている。世にも奇妙な“変態讃歌”に大化けする気配漂う企画だっただけに、一考の余地もあったのでは。
親友を亡くした悲しみ以上に、ひとり取り残された怒りに突き動かされているがごときシイノの壊れっぷりに、マリコとは違う無自覚ゆえの強靭な図太さが光る。窮地の度に登場する役得の窪田正孝が少々ご都合主義にも映るが、現実と幻想との境目を曖昧に撮っているため、シイノの潜在的バイタリティを覚醒させるためのみに現出した守護神のような存在にも見えてくる。共依存にも似た重めの友情を美化せず客観視する役回りの、飲み屋のおっちゃん連中や“クソ上司”もいい味を出す。
溺れる者は藁をも摑む、どうしようもなく無防備で決定的なダイナミズムの瞬間を捉えた絵画のインパクトが、映画の未体験ゾーンへと導いてくれそうな期待感を高める。しかし、言葉にしづらい気持ちや衝動を、進路に悩むふたりの女子高生のがむしゃらな創作活動を通して発散するさまを丹念に描く前半を経て、他者を理解できなきゃ気が済まない友人の純粋な好奇心を呼び水に、寡黙な人物にまで冗舌に喋らせすぎ、既視感を覚える青春ものへと収束していくのが、何だか歯がゆい。