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初っ端から凄いクレーンワーク撮影の連続技に痺れる。舞台が変わるとフライシャーの「ラスト・ラン」を彷彿とさせる逃走劇が主筋になる。チンピラのティム・ロスと倦怠感を漂わせるジョン・ハートのコンビがグッド。彼らに連行されるのは時に哲学的なテレンス・スタンプでこれまた良好。ところが終盤に至り突然脚本がバカになる。何があったのか。英国作家は不条理が好きなので、そっちをやりたくなったのか。あるいは話を終わらせる必要が突如生じたのか。一種、見ものではあるが。
久しぶりに労働者映画という範疇の企画に出会えて幸せ。こういうアメリカ映画が見たかったのだ。いわば70年代のマーティン・リット作品って感じか。スポーツバーのマネージャーとして愚直に働こうとしているだけなのに、そこら中から不満噴出、にっちもさっちもいかなくなる。何があったか、相思相愛の旦那も無気力症候群みたいになっちゃうし。群像劇にせずひたすら主人公女性の視点で労働現場の問題を描いているのが好感を呼ぶ。バーの隅っこで勉強している黒人少年が可愛い。
タイトルはトリュフ狩りのための豚のこと。画面も周到で美しく、物語の展開の意外性も文句なし。ただしネタバレだから書けないが、謎が小さすぎてちょっとね。70分程度でさらっと語られるべきストーリーじゃないかな。パートを区切ったのもかえってもったいぶった印象あり。人間よりも豚を愛するニコラス・ケイジという、まさしく絶妙なキャラが傑作なので潜在的にはもっと★が増える可能性もあった。総括すると、もっと「いい話」で良かったんじゃないかな。惜しい仕上がりなのだ。
近年の個人史記録映画として最上の出来。実の両親を知らなかった子供時代から狂騒的で注目され続けた晩年まで素材が豊富なだけに、ここ半世紀の映像メディアの画質の変遷まで具体的に分かり感激。彼の動向に関しては薬物と病気がらみの悲劇が。ただし最後まで見ると、その件で映画を再度見直したくなること請け合い。現代美術的には写真家シンディ・シャーマンのセルフ・ポートレートの手法に接近する局面もある。彼の聖ヨセフへのこだわりは自身が養子だったことに起因するのか。
スティーヴン・フリアーズが監督した「プリック・アップ」や「マイ・ビューティフル・ランドレッド」はゲイ映画の重要作であるが、そうしたテーマを少しずらして描きたいことを描いているような印象を受けた。たとえば「堕天使のパスポート」のような傑作や、「わたしの可愛い人 シェリ」のような駄作からなる玉石混淆のフィルモグラフィの中で、本作はフリアーズの間の抜けたテンポが奏功した異色なロードムービーの佳作。独自の哲学を持つテレンス・スタンプの存在感が効いている。
この映画は綺麗にまとまったプロットに関心はなく、強烈な個性を持ったキャラクターのアクションが牽引してゆく趣向の作品だろう。この良い意味での泥臭さは、トランスジェンダーのセックスワーカーを描いた「タンジェリン」を想起させた。女性が性的な存在として扱われる場所で、ゆえに性暴力までもが許容されうるという誤解と偏見をひとつのテーマに持つが、ここにあるのは不特定多数に向けた道徳の講義などではなく、主人公が人知れず天に向かって突き上げた中指そのものなのだ。
「慟哭のリベンジスリラー」の惹句が誘引するようにバイオレンスと狂気に満ちた復讐譚を予感させるルックでありながら、豚と一人の男の愛の物語であり、お料理映画でもある。そんな期待への裏切りがこの映画に大きく関与する。だから暖かな橙色の光に照らされて調理に勤しむシーンも、血みどろのアクションが繰り広げられていたかもしれないレストランの中央のテーブルで黙って対峙する男たちの姿も、どこかおかしみがある。豚との愛の物語が比喩となる凡庸さを除けば優れた逸品。
ケヴィンのモノローグ「何の話だっけ? そう……“美しさ”についてだ」に続き、メイクを施された顔の超クロースアップショットで映画は幕を開ける。他人の美しさを開拓し続けたケヴィンが「美しさ」を一瞬忘れてしまう語りの切り抜き。そして顔の一部しか視認できないためきわめてジェンダーが曖昧になり攪乱される映像技法。それらを援用した僅か1分にも満たないこのシークェンスは、そこから綴られてゆく「美しさ」と「セクシュアリティ」の主題を凝縮しているといえるだろう。
裏切りをおかし拉致された殺し屋と情婦、拉致した殺し屋による奇妙な共依存ロードムービー。すぐにでも始末すればいいのにそれはせず、目的から逃れ弛緩した時間はやがて豊かさをまとい、映画としか呼べないなにかへと変わっていく。滝のシーンの視線の交錯などを見ていると、あの頃の映画はいまも映画のまま少しもブレずにそこにいて、ブレてしまった、映画から離れてしまったのは日頃トラッシーな映像ばかり眼球から摂取しているわれわれの方なのかもしれないと恥ずかしくなった。
あらゆる面での素朴さには好感をもった。だがスポーツ・バーを舞台にしたシンプルなシチュエーションを1時間半駆動できるほどのユーモアの切れはなく、なによりも作品を引っ張っていかなければならないはずの主人公に心動かされることがなかったのは、演出家の俳優への演出がうまくいっていなかったからではないだろうか。俳優になにも施さないのと、ナチュラルに見えるようになにかを施すのでは当然まったく違うものが見えてくる。そのままのジャングルプッシーは良かったが。
近年勃興した「ニコラス・ケイジ」という映画ジャンルがある。「マンディ」や「カラー・アウト・オブ・スペース」などがそれにあたる。その多くは、薄暗い森に住む隠遁者ニコラス・ケイジが何者かに大切なものを奪われ、血だるまにされるも、まがまがしい音楽に乗って出陣し、無事復讐をとげるというものである。一本一本が見わけづらいという欠点に目をつぶれば、このジャンルの映画はおしなべて打率が高く、大切なトリュフ・ピッグを奪われるニックを追う本作もそんな一本である。
ケヴィン・オークインの生い立ちやセクシュアリティ、病のことなど、広げられそうな要素はいくらでもあったのに、そこにはあえて踏み込まず、ひたすら浅くて薄い情報の羅列に徹し、小金持ちの友人の結婚式に参加したときに見せられる新郎新婦の思い出ビデオのようなラインにとどまっているのは、あくまで表層にとどまることしかできない「メイクアップ」なるものに対する制作者の批評的な態度なのだろうか。いやはや、万事躁だった前世紀末はいろいろな意味で遠くなりにけり。