パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
例の恐竜映画で分かるように実写とSFXの共存は今や常識なのだが、ただし金がかかる。この映画の面白さは、比較すればずっと低予算なのに手持ち風かつ極端な長回しのSFXを駆使する画面にある。映像素材が加工されている印象が少なく、実写を活かす。だからこその、シャープな実験精神を味わいたい。いわゆるファミリー・ムーヴィー的な甘さはない。父と娘の不仲という物語の核も効果的。お母さんの死は、別居していたお父さんに責任がある、という長女の頑固な主張が結構怖い。
ある時代以降の殺し屋映画の定型、即ち腐敗しきった街路をさまよう元殺し屋のラスト・ミッション、というコンセプトが決まっている。俳優エイドリアン・ブロディのワンマン企画(音楽まで彼)故に、細部のこだわりが心憎い。今はゴミ収集車を運転するブロディがリサイクル・ショップに持ち込む品々とか、銃じゃなく工具に執着するとかね。亡くした娘さんとの過去の事情が分かりにくいのが難だが、これがないと現在の展開が説得力をなくすから仕方がないか。正に驚きの一本也。
『ドラゴン桜』にもこのくらいソング&ダンス&銃撃アクションがあったらなあ、と思わざるを得ない。実話ベースといっても割とフィクションでしょ。だって最大の極悪人は当時の文部大臣ではないか。こういうところインド映画は大らかで凄い。日本だったらタダじゃすまないぞ。で、踊りだがボリウッド映画のクリシェより、予備校生が即席で演じる英語劇からぐっと盛り上がる集団(観客含む)パフォーマンスがさすが。私が日頃より尊敬する天才数学者ラマヌジャンの話もちらっと出る。
全篇アーカイヴ・フッテージの凄味。最小限の説明字幕で鮮明な映像自体に語らせる。ナチによるユダヤ人大虐殺映画は数あるも、扱われるのはアウシュヴィッツの強制収容所よりずっと早い41年の事例で驚く。舞台はウクライナ、ドイツ占領下のキーウ。惨劇の始まりはここだった。虐殺の直接映像はないが直前の集合写真を見るだけで痛ましい。どこもかしこも痛ましいが、ある意味、最も残酷なのは戦後、当局が現場をレンガ工場の処理用水場にしてとっとと埋め立てたことじゃないかな。
サバンナをかき分けて歩む登場人物たちの同行者へと擬態した、つねに動き続けるフィリップ・ルースロのカメラが臨場感を高めてゆく。さらに、つなぎめを意識させない流麗な編集もそこに加担する。南アフリカの深刻化する密猟問題を背景に、人間の犠牲になった野生動物との戦いが行き着く結末にもひと捻りあった。感傷的な局面を迎えても決して速度を止めずに突き進む。自然との対峙を描いた「エベレスト3D」をはじめ熟練のコルマウクルだけあって映画の質自体は高く、及第点。
ファーストショットで夜間撮影の美しさにほだされそうになるのも束の間、その後ほぼなにも起こらない。陰影を巧妙に取り入れた独自な映像が展開していきそうな期待を即座に裏切られてしまう。黒人のギャング集団と白人の主人公も、ステレオタイプな図式に陥っていないか。エイドリアン・ブロディが製作に手厚く関わり、彼の存在感がこの映画を支配していたとしても、どうにもならないほどあらゆる要素が奏功していない印象を受けた。熱意とは裏腹に、良作になり損ねた無念さが後を引く。
キャッチーな歌と踊りをふんだんに詰め込んだ本作は、そこだけ観るならば期待通りにインド映画を堪能させてくれるかもしれない。しかし観終わったあとに残るのは、空虚さだけである。つまるところこの私塾がなぜ驚異的な成果をあげることができたのか、その具体的な秘技そのものに対する驚きや衝撃がない。ただただ大雑把で大仰すぎるメロドラマ的プロットでこの映画の大半の時間がかさ増しされている。題材がきわめて魅力的である分、この調理の仕上がりには閉口するばかりだった。
星の数はこの映画の前ではもはや形骸化し何の意味もなさないが、ロズニツァのフィルムには、彼がこの映画を「アート」と形容するように、つねにその芸術世界へと否応なしに身体が巻き込まれてしまっている恐ろしさをおぼえる。終盤の法廷におけるひとりの女性の証言には迫力が漲り、そこには映像の不可能性が逆説的に立ち上がってくるようでもあるが、同時に映画が語りうることの奇跡に肉薄しているようにも思える。原題に付された「コンテクスト」が、重層的な意味を帯びてくるだろう。
各キャラクターの行動原理がてんでわからないので、もっさりと動く幼児用アトラクションに乗せられているような体験であった。それにしても、30年前のB級パニック映画ならまだしも、2022年にこの醜悪な人間中心主義はさすがにマズいのではないだろうか。人間たちの蛮行によって「ビースト」にならざるをえなかった天然の存在を人間たちが馴致した人工物と競わせるなんて。こうした作品を無自覚に流通させることとサバンナの動物の牙や皮革を密輸することに大きな差はあるのか。
いまは穏やかな暮らしを送っているものの人には言えない過去をもつアウトローが近しい者を傷つけられたことをきっかけに隠していた暴力性を炸裂させ復讐を成し遂げるという作劇は古今の映画作家たちによって反復されてきたモチーフであり、もはや独自のジャンルと呼んでもいい。その歴史に新たに加わることになる本作はブラック・カルチャーやドローン・ショットの導入など、新味もあって決して飽きさせないつくりにはなっているが、ウェルメイドがゆえの物足りなさも感じた。
いかんせん冗長ではあるが、親のカースト次第で残りの人生が見通せてしまうとか、キャッシュ・ルールズ・エヴリシングとか、ネットの中での世界は日々広がっているのに現実の世界はむしろ息苦しい場所になっているとか、英語を話せないと誰かと即日交換可とか、本作が描くインドの現在に似たような景色はいまやこの星のあらゆる場所に広がっている。この「インド化=中世化」を招いた記号資本主義を叩き潰さんと立ち上がった若者たちによる七色の咆哮におぼろげな未来を見た。
何者かがなんらかの意図を持って撮影した戦時中の記録映像をいま新たなる意図をもって再編集し映画作品に仕上げるという制作プロセスが浮かび上がらせるのは、現代においてわれわれが歴史を語ることの不可能性と、それでもあえて歴史を語らなければ早晩人間は人間でなくなってしまうのではないかという作者の存在論的な逼迫である。本作でもセルゲイ・ロズニツァは猛烈なニヒリズムの嵐の中に身を置きながらも、その中心で人間への信という名の真っ黒い篝火をかざしている。