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自称女優が故郷に帰ってくる。普通は帰ってこられないのに帰ってくる。経済的困窮はアリバイでしかない。本当の理由が見えないからバカにしか見えない。中盤変わろうとするが、あんな理由で変われるなら今までだって変わっていたはず。映画時間内でしか存在しないキャラは魅力がない。後半、幼なじみ視点で冒頭からの時間が再現される。しかし種明かしと言える程のものは何もない。この程度なら同一時間軸で描くべき。なんか映画の基本が出来ていないというか。私は判ってあげられない。
子供が死んで、妻は元夫と、夫は元カノとヨリを戻しそうになる。妻はホームレス支援をしていて、聴覚障害者で韓国人の元夫を放っておけないと言う。夫も元カノを捨て、元夫に逃げられたシングルマザーとの結婚を選んだ。互いに社会的弱者=優越感を持てる相手にしか惹かれないのか。タイトルは明らかに反語で、愛はなくても共に生きていくというラストなのか、共に生きることが結局愛なんだというラストなのか。いろんなことを考えさせるが、ズルい余白だと思う。圧倒的に映画だけど。
岸田政権が原発新設を発表した日に本作を観る。ふざけるなと思う。もちろんこの国に対して。2号機4号機が大爆破を免れたのはあってはならない破損があったがゆえの奇跡。伊方原発再稼働を認める原子力規制委員会の茶番。南海トラフ大地震が起こったらどうする気だ。もう無茶苦茶。この映画はそれを余すことなく伝える。誰がための原発。これで、原発をとめた裁判長や太陽光発電をやる農家の、理屈ではない、人間としての根っこさえ描けていれば。そこに映画の臨界点があったのでは。
松山ケンイチをなぜ前科者にしたのか分からなかった。幼き日の父の出奔のせいで、罪を犯す人間になってしまったと思い込んでいるという設定なのか。でも父を赦せないという想いと前科の贖罪がリンクせず、結局は父を赦す=弔うだけの話になっている。それが=自分を赦すにはどうしても見えない。いや、誰もが自分を赦すなんて出来ないというテーマなのか。登場人物はみな面白く魅力的だが、それぞれの変が切り結んでいかない。荻上直子の映画はいつもそうだと言えば、それまでだけど。
自分勝手な行動で周囲を振り回して、島中の嫌われ者となっている城子を演じる平岡亜紀の存在感が強烈。「勘違い」ぶりを全開にして突っ走りながら、どこか憎めない。媚びない人なのだ。困惑しながらも城子に付き合う町職員役の鈴木卓爾の受け方の演技もいい。ご当地映画の制作トラブルやら、過疎自治体の移住支援策やら、ありがちなトピックも絡めて軽快に見せる。後半は引っ込み思案の由記乃の視点で同じ物語を語り直し、対照的な二人の女性の生きづらさを浮かび上がらせる。
平穏な暮らしを一皮むいたところでどろどろと渦巻く憎しみ。ある境界線を越えた侵入者に対する不寛容。深田晃司が一貫して描いてきたそんな不穏な感情が、多くの棟が連なる団地という舞台でざわめき続ける。遠くの棟のベランダとの叫ぶような対話、周囲にはわからない韓国手話による無音の対話、聞こえない相手を前にした一人語り……。人物と人物のコミュニケーションと断絶のありようが具体的な画と音で示される。たどり着くのは憎しみと裏腹にある愛。深田の新境地に違いない。
原子力発電所差し止め訴訟と営農型太陽光発電(ソーラーシェアリング)という二つの動きを、当事者に密着しながら紹介する。なぜ原発を止めるべきなのか、原発の耐震性は十分なのか、容認派の主張のどこが問題なのか。そんな論点を誰でも理解でき、誰もが議論に加われる形で示そうとする。それが樋口英明元福井地裁裁判長とこの映画の手柄だ。「専門技術訴訟」であるとして主体的な判断を避ける司法だけの問題ではない。我々一人ひとりが主体的に考え、行動すべき問題なのだ。
荻上直子が人生のダークサイドに正面から向き合っているのが新鮮だった。流れ者の松山ケンイチにしろ、アパートの大家の満島ひかりにしろ、出てくるのは過去にトラウマのある男と女ばかり。その欠落感や喪失感と向き合い、死と向き合う。イカの塩辛の工場がある北陸の町の空気がリアルで、ほのぼのとしたトーンの中の重さが、やがてドラマの重心となっていく。言葉による説明過多と極端なキャラクター設定にいささか戸惑ったが、救いはやっぱり食事。白いご飯が実にうまそうだ。
撮影が中断された設定の場所で実際に映画を撮る、シニカルな面白さが活かされていない。長島町をアピールするご当地ものでもあるはずだが、わがままの範疇を超えた無礼な“女優”をはじめ、ひとも町も魅力的に描かれているとは言い難く、最終的に台詞に頼るのは、映画の敗北ではないか。一旦は故郷を離れた女性の体験を、留まり続ける女性の視点で捉え直す試みも、劇中で唯一対話が成立している“なんちゃってお見合い”シーン以外は新鮮な感慨に乏しく、冗長な印象を与える。
本作を観る限り、結局は血のつながりを超えたところに愛など成立しないと思えてくる。赤の他人のあいだに生まれる同情や憐れみ、虚栄や打算など、心の空洞を一時的であれ埋め得る感情の揺らめきを、それと思い違いしている疑念が湧く。子連れ再婚一家を襲う悲劇を機に、過去から現在まで塗り重ねてきた見せかけの愛のメッキがペラペラ剥がれ落ちるさまを、時に失笑を誘うほど滑稽な修羅場もスルーし、冷徹に淡々と観察し続けるが、人生そんなものだったら、何だか悲しすぎる。
独立の気概と平明な理論を拠り所に多様な案件に臨んできた裁判官と、数々の経済事件で名を上げたやり手弁護士。共通点のなさそうなふたりが、大飯原発運転停止命令を下した歴史的瞬間を口火に“生涯の盟友”となる闘いの軌跡が、理不尽が罷り通る世情に光をもたらす。途方もない絶望の日々があったからこそ、有機農業に太陽光発電を組み込む新事業にも敢然と踏み出せる被災者の方々のとびっきりの笑顔に励まされ、いわゆる震災映画とは別格の未来を見据えるバイタリティに感銘する。
炊き立てごはんからすき焼きまで、目にも美味しい場面が誰かと分かち合う幸せを謳う一方、「おみおくりの作法」のごとき献身的で遺族想いの職員や、薬師丸ひろ子の軽妙かつ深い声色を堪能する“いのちの電話”のカウンセラーとの絡みが、孤独も不幸ではないと鼓舞する。ただ、荻上監督流“みんなちがって、みんないい”的エールがイマイチ実感不足で、他者との距離の詰め方が異様な隣人ら荻上作品には珍しくクセの強い面々に可能性を感じただけに、新境地に挑む選択もあったとは思う。