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呆れた。商品以前のモノを見せられている感じ。ノンジャンル映画というのは、ホラーも青春もサスペンスも中途半端でいいということではない。主舞台の精神科医の家。ただ撮らないで黒沢清や鶴田法男を観て勉強すればいいのに。虐待児童を助ける解放者が家族のために略奪者に変わるという発想はいいのに。兎と脳内記憶の交換って、荒唐無稽をやるにも最低限のルールがある。結局それは人間描写にも敷衍する。これを準グランプリにし映画化する不見識から変えないと映画は変わらない。
いつもの沖田修一に比して、明らかにユルい作り。そのスタイル自体が、普通ってなんだ?というテーマと通底する。映画ってなんだ?我々が常識(映画的)と考えているものは常識(映画)ではないというメタ構造。男とか女とか映画とか関係ない。しかし、のんのキャスティングを含めて少しテーマに囚われ過ぎたのではないか。さかなクン本人を出したことも正解だったかどうか。いや、それも映画とは?という問いに対する思索なのだろうが。嫌いじゃない。だけど最後まで心弾まなかった。
開始10分、全篇ワンカットでいく気だと震える。ただスタイルは所詮スタイルだよな、細かい話や感情は拾えないよな、無理してワンカットでいかなくてもとも思う。しかし、40分で終わる。話はそこから面白くなる。というか動く。でも、これならこのままワンカットで最後までいったら、どれだけ感動的だっただろうと残念に思う。ないものねだり。主役ふたりが素晴らしい。しかし、AFFに通ったから作らなきゃいけない映画って、一体なんだ? 本当に必要なところに届いているのか。
人生で一度たりとも興味を持ったことのなかったものを映画で知り、心動かされる。そんな幸運な体験を今回もまた。紅花は染料として珍重され、財を成した人が大勢いて、しかし化学染料に押され、戦中の食糧増産で禁止され、戦後に僅かな種から復活したなど、知らないことばかり。栽培するだけなら絶滅危惧種の保護でしかない。どう染料にするかだ、と栽培や染織に関わる人たち。こうやって文化は受け継がれる。みんな、いい顔をしている。自分はこういう顔で映画を作っているか。
交通事故で傷ついた家族の再生をホラーにするという発想が面白い。「幸せになろう」という強迫観念を具体的に表現したラストも鮮やか。怨霊とは無縁の明るいトーンは北欧ホラーのようで新鮮だ。新鋭監督にオリジナル脚本で撮らせるTSUTAYAのプロジェクトならではの作品だと思う。ただ設定のユニークさに比べて、いささか物足りないのがドラマの緩急と映像の強度。父親役の玉木宏が最初から怪しく、映画の半ばでこの男の企みはほとんど露呈してしまい、緊迫感に欠ける。
これは一種の教養小説なんだろうなと思った。登場人物が経験を重ねながら成長して、何者かになる物語。主人公のミー坊だけでなく、紋切り型の千葉の不良少年たちも、すし職人やら、テレビディレクターやら、それぞれに大人になっていく。さかなのことばかり考えていて、子どもの頃からまったく変わらないように見えるミー坊も、数々の挫折や失意を経て、おさかな博士になる。そう考えると、ここではないどこかをめざす、というのは沖田修一の一貫した主題なのかもしれない。
開巻からタイトルまでの約40分の長回しがやっぱり面白い。高校生の男女が川べりの道を延々と自転車で走りながら、しゃべっているだけなのに見飽きない。走り続ける自転車と過ぎ去っていく風景。その絶え間ない運動感。いったい次に何が起こるんだろうというワクワク感。そしてまたコロコロと変わり続けてとどまることがない上大迫祐希の表情。好きなんだけど、好きと言わない、好きと認めない、でも気になる。そんなごく平凡な感情が生々しく豊かに伝わる。これが映画だ。
知らなかった。紅花が中近東から伝わってきたことも、染色の工程が独特であることも、その技術が日本にしか残っていないことも、高貴な色だが繊細で褪せやすく、戦時下に栽培を禁止されたことも。そんな紅花染めを守ろうとする人々が実に魅力的に映っている。栽培する人、染める人、触媒材を作る人。紅花に魅せられ、決して声高ではないが、仕事に誇りをもっている。そんな清々しさが、映画の清々しさとなっている。山形生まれの監督とプロデューサーが虚心坦懐に撮った紅花の映画。
虐待やネグレクトも、独善的で過剰な愛情も、親が身勝手に子どもの自我や尊厳を無視している点では、確かに紙一重かもしれない。ただ、何とも薄っぺらな正義や倫理観をかざして裏テーマらしきものを叫ばれても、幸せだった頃まで時間を巻き戻したいという、誰の身にも覚えのある切実な感情が発端のはずなのに、心に響くどころか、憤りすら覚えてしまう。意外性に欠ける真相が明かされるにつれ、恐怖や高揚感よりも、嫌な予感が的中する倦怠感ばかりが募る、奇怪なサイコスリラー。
さかなクン自ら負の分身のような人物を演じて鮮烈にフェイドアウトすることで、きわめて稀有なサクセスストーリーに根差すパラレルワールドに、妙な生々しさも加わる。そのせいか、ずっと好きなことだけ突きつめる強靭さよりも、“大人”や“普通”の尺度に縛られブレまくるひとたちが、初志貫徹のマイペースに翻弄されつつ人生を進む姿の方が、魅力的に映ったりもする。「横道世之介」コンビらしいB面群像劇の趣だが、さかなクン≒ミー坊にしか見えない景色も覗いてみたかった。
神田川に沿って途方もなく続く、冒頭からの超長廻し。道幅も狭く制約だらけの無茶ぶりを、個々に自転車まで乗りつつ、ともに乗り切ろうと助け合うさまが、相思相愛のくせに友情ごっこに逃げてきた彼らの関係性とも重なり、じれったさが痛いほど伝わるため、じゃれ続けるふたりを俄然応援したくなる。怪しげなおっさんから軟派な兄ちゃんまで、適材適所でよい仕事をする人物すべての登場も、想いを告げることなく急逝した幼なじみの計らいに見えてくる、切なくも幸福な味わいの逸品。
戦後に一度は途絶えた紅花栽培を復興させ、時にはご近所さんも総動員して手摘みした花を、手間暇かけて“紅餅”なる染料に加工する工程は、知らないことだらけで興味津々。紅花産業の盛衰の歴史に加え、天然素材や染めにまつわる、苦楽を共有してきた夫婦や親子のドラマがメインとなっているが、口々に語られる紅色の特別な豊かさや儚い美しさについても、もっと具体的に映像で捉えられていれば、紅花に魅了されてきた彼らの貢献や功績が、より身をもって実感できたように思う。