パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
主人公の女の人がコレ浮気じゃないよねって言って、一晩男の人と過ごすくだりが良かった。お互いの脇の匂いを嗅ぎ合うとことか、トイレでおしっこ見せ合って思わずおならが出ちゃうとことか、笑ってしまう。自分探しを続ける主人公の間違いっぷりが微笑ましい。男の人と出会って、恋に落ちて、別れて。ただそれだけのことが愛おしく思えるのは、彼女が一生懸命だからだ。一生懸命間違い続ける姿を見ていると、涙が出てくる。真面目でちょっといい加減な彼女が実にキュート。
ヒロインがもう悶絶死するぐらい美しかった。彼女のことを考えるだけで、幸せな気持ちになる。女の人がこんなに美しいとは! こんな気持ちは久しぶりだ。猥雑で詩的でとことん美しい。もう一人の肉感的な女の人もエロくてたまらん。野生動物だ。どっちの女子もトラウマ級に印象に残る。男どももみんな下品でユーモラスで、エネルギッシュだ。羊を連れた牧師が出てくるのだが、こいつが底抜けにアホで情けなくて大好き。暴力と血にまみれた物語。強烈な描写に我を忘れる。
マーク=アンドレ・ルクレール。カナダ生まれの23歳のアルピニスト。彼は階段の下のスペースで寝起きするような変人。寝袋が破れてたってガムテープ貼って過酷な冬山に行く。彼は束縛を嫌う。急に行方不明になる。制作チームが、「困った」とあたふたしているのが面白い。で、とうとう事故が起こる。やっぱりか。いつこれが来るのかとずっと身構えていた。死ぬことを予感していた若者の、神がかりのようなクライミングが記憶に残る。猿みたいに壁をひょいひょい進む。
登山家なんてみんな変人に決まってる。わざわざ死ぬかもしれないことを意地を張って貫く。アホだけど、冒険ってそれほど人を惹きつけるものなのだろう。慕ってくる若者が、案の定、事故にあって死んでしまう。ほらもう言わんこっちゃない。予想はしていたが痛々しかった。死んでもいいから山に登りたいっていう狂ったやつらの、だからこその連帯にグッとくる。頑なでストイック。実は心優しい。登山家のキャラってみんなこうなのか。もっと変なやつがいても良かった。
結局“わたし”とは何なのかわからないまま、物語=人生が続いていくことに意味がある。わたしとあなたの物語ではなく、徹底してわたしの物語。だからこれはラブストーリーとはちょっと違う。ユリアはきっとどんなことにも簡単に納得しないし満足もしない。用意された道からあえて逸れることは、決して逃げ出すことではない。諦めて人生を悲観しているわけでもない。むしろ徹底して自分と向き合おうとしているからこそ「わたしは最悪」と言うことができるのだ。誠実で新しい。
こんな幸せがあっていいのだろうか。奇跡的としか言いようのない凄まじい映画体験であり、どの瞬間も完璧に作り込まれた映像、すべての登場人物たちの表情に惹きつけられ、この世界にあっという間に吸引されてしまう。完全に映像と一体化したズデニェク・リシュカの作り出す神秘的で魔術的な音楽が、より立体的なものとしてこの身に迫り来て、距離を保てなくなる。マルケータのあやうく鋭い視線に誘われ、喜びとともに朽ち果ててゆく疲弊の快楽に包まれる。映画の完全なる勝利である。
すいすいと山の壁を登っていってしまうその姿は、動物的なしなやかさがあり美しい。生活や名誉欲のためではなく、ただ純粋に楽しむためだけの登山する若きマーク=アンドレ・ルクレールの姿に魅了されつつも、命綱がない状況で挑戦することなど、死とあまりにも接近している状態を黙って見ることしかできない状況を手放しに楽しめる余裕が私にはなかった。彼を撮りたい気持ちはわかる。だが本当に気楽に彼の人生を見てしまってよかったのか。何とも言えない葛藤が今も続いている。
山登りについて何の知識がなくとも、いかに登山が過酷なものであるかが伝わってきて何度も息を飲みながら釘付けになっていた。「アルピニスト」がドキュメンタリーであったのに対しアニメーションである本作は、緊張感がありながらも、映像の中で人が死なないという安心感によって集中して見ることができたように思う。フィクションだからこそ織りなすことのできるリアリティだ。シンプルながらも、こと細かに書き込まれた背景からは匂いすら立ちこめていた。
アイヴィンがアダム・サンドラーに見える瞬間があって「パンチドランク・ラブ」(02)を期待するも、これでは世界中の書店員とカフェ店員を敵に回すのではないかと心配になる。職業に序列が付けられているようで、その点が気になった。また、結局は「恋より仕事」という類型に落ち着くように見えるが、そのわりに描かれるのは恋愛ばかりで仕事に関心が払われていない。この映画を見終わって、彼女が仕事を覚えて写真家になっていく、その過程を追った別の映画を私は想像した。
舞台は13世紀のボヘミア。なるほど、雄大な風景をともなう壮大な叙事詩である。衣裳や美術などを通して忠実な時代の再現を図り、長期にわたるロケ撮影で役者とスタッフを作品世界に浸透させた。だが、表現としては、この世界がいかに閉じられているかを強調するつくり。わかりやすいのは、台詞にエコーをかける音響処理だろう。教会の内部ならいざしらず、屋外の開かれた場所であっても人物たちの声はつねに反響をともない、あたかも密閉空間の内側にいるかのようなのだ。
登山とかクライミングとか何も知らない。もちろんマーク=アンドレ・ルクレールというアルピニストのことも初耳だ。死と隣り合わせの世界。GoProとドローンの映像はいかにもスポーツバー(行ったことないけど)でループ上映されていそうな見目麗しいものだが、こんなすごい人がいるのかと夢中になって見ていた。だからそれだけに、彼の死がこんなかたちで物語化されていることに違和感を抱く。彼の死をドラマの転機とすべきではない。それはこの映画の出発点であるべきだった。
写真家の深町は、山を被写体にしようと崇高な自然美には関心がない。彼にとって写真とはあくまで証拠であり、「マロリーのカメラ」にこだわるのはそれゆえである。一方、登山家の羽生はそんなマロリーのカメラを「どうでもいいこと」だと吐き捨てる。写真には大事なことは何も写らないからだ。この作品は「グラン・ブルー」(88)の深海を山頂に転じたもので、通俗的な自殺の審美化にすぎない。そのうえイメージの不可能性に居直る点では「グラン・ブルー」以上に反動的である。