パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
こんなベタベタなVシネマ風を観たのはいつ以来か。探偵+やくざモノなのだが、どっちつかずでどっちの魅力もない。シリーズ狙いだとしても、謎を次作に残すことと人物が意味不明なのは同義ではない。すべてがいつかどこかで見た風景で新鮮味が全くなく、ワクワクもドキドキもしない。娯楽を目指すことは主義主張を捨てることではない。娯楽の中で何が表現したいか。これをお金を出して観る人の気持ちになって欲しい。次からはちゃんと脚本が読める人を周りに置いて、本物の娯楽を。
「花束みたいな恋をした」は有村架純と菅田将暉が演じた時点で、普通が神聖化されている気がした。本作は花恋へのカウンターで、普通じゃない人の花束みたいじゃない恋を描く。その姿勢や良し。だから後半、病気に走らず、性格や心の不安定だけで押して欲しかった。いまおかさんの台詞は上手いが、演出がそれを処理するのに汲々としているようだった。最後のセックスで相手の名前を忘れるのなら、台詞で後説するのではなく芝居だけで見せないと。そのぎごちなさも悪くないのだけれど。
悪くない映画だと思う。これがデビュー作なんて大したものだ。無垢過ぎる少女の逸脱を描くことで、多様性多様性という社会がどこまで異物を許容できるかというテーマもいい。少女を演じられる役者を見つけ、あそこまで演出できるなんて。傑作だと言う人もいるだろう。でも何でだろう。「お引越し」が心に響いたようには響かない。相米さんと違って、少女の心に迫るのではなく、少女を俯瞰して理解しようとしているからか。偏差値の高い映画だが、それが映画的感動を遠ざけていないか。
プロの仕事だと思う。人物の置き方や出し入れ、説明するしないの判断、どれも上手い。プロの手練は、部落出身だと口外してはならぬという父の戒めを破る青年の軌跡を見事に描く。しかし百年前ですら通俗的で甘過ぎると批判された原作を今やるには何かが決定的に足りない。今、『破戒』をやる意味は何か。今、部落をどう伝えるべきか。部落を抜きにしても面白い映画かどうか。その答えが見えない。教育映画や手垢のついた娯楽映画が見たいのではない。見たいのは、21世紀のシン・破戒だ。
スポーツカーが疾走し、女性のスカートがまくれる巻頭から、すごいB級感。探偵という設定も、公道でのレースも、いいぞ、いいぞ、いかにもジャンル映画だ。寺社や橋という京都らしい風景、舞妓、焼肉、ゲイ、京都弁。2時間ドラマっぽいチープな画面。さあこいつがどう展開するのかとワクワクしていたら、あれれ。ヤクザとIT企業の暗闘にチンピラたちが割って入るという、これまた凡庸としかいいようのないドラマのまま終わった。なんなんだ。ビデオ映画へのオマージュか?
「うざい」「きもい」とデート相手に罵倒された鬱の女とコミュ障の男。そんな二人が一緒に暮らしてもやっぱりうまくいかないが、そのとことんうまくいかない姿を丁寧に描く。困難が降りかかるたびに、女と男の相寄る力は純度を増すし、二人の欠落感は実は誰もが抱えているものだとわかる。でもやっぱりうまくいかない。極端な設定の女が身近な存在になるにつれ、街山みほがどんどん魅力的になる。走るショットもすばらしいが、仰角で夕空と二人をとらえたロングショットは白眉。
画面に力があり、ワンシーンワンショット撮影に引き込まれた。例えば病院から一旦戻った父が去り、あみ子が「赤ちゃんは?」と問うと兄が「どこにもおらん」と答える玄関のショット。あるいはあみ子が作った墓標を見た母が嗚咽し、帰ってきた父が連れ出す庭のショット。新しい母親を迎えた家庭の崩壊という世俗的な物語の傍らに、マイペースで超然としながらも真の繊細さを内に秘めたあみ子の世界がある。そんな物語世界を森井監督が一つ一つのショットの中に具現化している。
丑松の内面の葛藤を描く一方で、日露戦争後の国家主義の台頭、同調圧力の高まりといった時代背景を念入りに描いている。そこに現代との共通性を見出したのだろう。わかりやすい図式だが、丑松の悩みそのものはややぼんやりとしてしまった。教室で子供たちに出自を明かし、町を出る丑松に士族の娘が寄り添い、子供たちが泣きながら見送るという終幕も、わかりやすく、メロドラマを盛り上げる。ただ丑松の目的地に具体性がない分、ふわりとした情緒しか残らない憾みがある。
タイトルにまで銘打つほど京都が舞台である必然性を感じられぬまま、東京に話が飛んでしまう謎。出し惜しみするほど複雑なプロットでもないはずなのに、終盤近くになって思わせぶりな裏設定をチラつかせ、回収されずに放置されていくのも、続篇を視野に入れているのかもしれないが、不誠実な印象を与える。役者やミュージシャンとしても活動する監督が、幅広い人脈を生かして仕事仲間と楽しく撮ったものを“映画”として見せられても、内輪なノリや弛緩したトーンに疲労感が募る。
実生活ではできれば関わりたくない、互いを高め合うどころか足を引っ張り合っているようでもあり、こじれた拍子に新聞ネタにでもなってしまいそうな危うい男女。先日の某泥沼裁判ではないが、出逢わなければよかった方の運命のふたりの物語かと思いきや、白くまアイスで涼をとり、クレイジーな夏を何度もともに過ごすうちに、真の運命のカップルへと転じていく。自身のことだけで精一杯だった自己中同士が、相手を思いやることで愛を見つける、何気ない“攻め”も光る巧篇。
不意にホラーな影に支配されていく日常を、小学生から中学生になる少女の視座で、メルヘンの要素も絡めて映すならば、他者の心も自己流に解釈して奔放な言動を繰り返すあみ子を、“おかしな子ども”と認識させてしまうのは、演出上マイナスに思える。惚れ抜く新星に敢えて演技をさせず、特異な存在感だけで押しきった制作陣の賭けは、吉か凶か。何かとちょっかいを出す一方、鋭い観察眼ももつ坊主頭の少年の存在が救いで、天性の野生児の乙女な一面を引き出すのにも貢献している。
同原作の過去の映画化を思い返しても、色々な意味で華や品が必要な丑松役に、間宮祥太朗は適任。見えない差別意識や同調圧力にさらされつつ、自身のアイデンティティに苦悶し葛藤を続ける姿を繊細に好演し、普遍的な共感を呼ぶ。子役も芸達者を揃え、家庭環境など不遇な状況下であれ、可能性に満ちた生徒たちとのふれ合いも丹念に描き、教育の大切さを今改めて問い直す意図は伝わるが、“最後の授業”の場面が胸を打つだけに、それに続くくだりが少々長く、蛇足に見えるのは痛い。