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ウェス・アンダーソン的な画面の極端な正対性を活かした描写だが、こちらの方が効果的。子供の落馬の場面とか。主人公の部屋のガラスの汚れの扱い方も凄い。この汚れは天使の姿なのか、それとも悪魔か。タイトルは具体的にはこの窓の反映を意味している。日常の中の戦場というテーマがあまりに今日的。言葉を失うも設定は8年ほど昔で、そんな頃から両国が戦争をしていたとは知らなかった。撮影機材の進化でピントが遠近同時に合うようになったのがここまで効果的な映画は稀だ。
プレスリーとパーカー大佐といったら「一卵性他人」というほどの信頼関係。と思ったら違った。私の心のエルヴィスは本作クライマックスに時期的に相当する「エルビス・オン・ステージ」に続く映画「オン・ツアー」からのヒット曲〈ほかほかバーニング・ラブ〉に尽きるのだが、そこにも大佐の奸計が。またB・B・キング、シスター・ロゼッタ・サープをはじめとする黒人音楽との関わりや公民権運動の推移が活き活きと描かれるのも、上首尾。でも最高なのはテレビでのライヴの一件かな。
サイコパスに地下室監禁された少年と、彼の行方を探すその妹の超能力者。それぞれの行動が同時進行で描かれる。ホラーだがユーモアも隠し味で、普通のアメリカの田舎のたたずまいが心憎いね。タイトルの意味は少年に時々かかってくる壁の黒電話のこと。配線は切れているのに、はて。この企画が可笑しいのは脱出のためのアドヴァイスが結構もどかしくて、有効なのかそうじゃないのか微妙なところ。この感覚がスティーヴン・キングのパロディみたい。原作者はキングの息子さんとか。
マギー・Qといったらプレスにはないがまず初期作品「レディ・ウェポン」を思い出すのが常識。でも実は香港出身じゃない。ともあれ本作でも、全身が頭脳みたいなシャープでクレヴァーなアクションをたっぷり堪能できる。英国からヨーロッパ、アジアと世界各地を舞台に、ひねりのある物語が展開され、かつ「殺し屋映画」というジャンルのあり方への批評的な視点が存在するのが新機軸と言える。復讐の虚しさが根底にある。敵方の護衛役マイケル・キートンがとぼけたいい味を発揮。
四角い窓がある部屋を映し出したファーストショットは、フレーム内にもうひとつのフレームを設える。窓やガラスを用いた反射のモチーフが繰り返され、いたるところで光が反射するように戦争の傷痕がその地に遍在することを伝えてくる。厳格なムードと神経質なフレーミングによるロングテイクが連なるこの映画は、断片的に絵画を繋ぎ合わせたような形式をとる作品だ。とくに娘の後ろの大きな窓に向かって反射した空だと勘違いした鳥がぶつかるシーンはこの映画の中核であり忘れ難い。
「倍速視聴」の余地がないほどウィップパンを多用しながら随所で旋回する俊敏なカメラが、「迷子」として画面に存するエルヴィス・プレスリーの短く早すぎた人生の迷路を、息つく間もなくみせていく。ややもすればドラッグに溺れ正気を失っていく紋切り型なスターの伝記映画に陥りかねないところを、トム・ハンクス演じるマネージャーの重層的な人物造形と芝居がこの作品に深みをもたらしている。バズ・ラーマンのゴシックな映像美学が主題と合致してスペクタクルが結実した逸品。
ジュヴナイルもののホラー/スリラーとして正攻法な作りであり、途中でダレることもないため最後まで退屈せずに観られる。少年が電話機を使って敵を退治するシミュレーションをする場面をやや長回しで映すあたりの演出も満足度に貢献しているかもしれない。しかし殺人犯自体の狂気や恐ろしさがいまいち足らず、イーサン・ホークをそこまで生かしきれていないように見えてしまった。終盤の山場にしても脚本や演出などの工夫でもっと盛り上げられたような気がしないでもないのが心残り。
マギー・Qを殺し屋として中心に置いたところまではいいかもしれないが、そんな彼女とマイケル・キートンとの敵対関係の描き方も時代遅れに感じてしまう部分があり、志だけが先行している感が否めない。マギー・Qを含め「ジョン・ウィック」的なアクションへの期待にはそれなりに応えてくれるのかもしれないが、いかんせん物語の内容が消化不良を起こしてしまう。監禁された緊迫感あふれる灰色の室内から、のどかな緑の風景へと画面とテンポがガラッと転調するあたりは良かった。
頑強なフィックス・カメラによる一枚絵がウクライナの現実を観客として見よとばかりに迫ってくる。しかしこれはあくまでフィクションであり現実ではない。いや現実か。いくつかのシーンにモザイクがかけられていた。己が直面するこの世界の酷薄さを命懸けで表現しようとしている人々の訴えに対して無情にもモザイクをほどこし蓋をするどこかの誰かの感性こそが非倫理的であり野蛮であるということを認めるところからしかわたしたちはウクライナ問題に近づけないのかもしれない。
若き日のエルヴィスがあのほったて小屋で「何か」を見てしまって、思わず逃げ出してたどり着いた教会で「何か」に取り憑かれるまでの一連のシーケンスには何らかの映画的奇跡が宿っていた。カントリーとブルースが契りを交わした昼下がり、なんと仲人はヒップホップで、古典=スタンダードを下敷きに、あらゆる境界を激しく攪乱しつづけるバズ・ラーマンの演出は、根底でひとつに統制されながらも何でもありな現代との相性が抜群だ。バズ・ラーマンの時代がすぐそこまで来ている。
主人公の少年が事件に巻き込まれるまでの70’sアメリカの景色や生活は各演出のカット不足を忘れさせるほど魅力的だ。しかし舞台が例の部屋に移ってからは、それだけ各方面から助けがくりゃーそりゃ逃げられるでしょうよというツッコミを我慢していた。つまりエスケープ・サスペンスがまったく効いていない。レザーフェイスのごとく意味からの逸脱を試み、ただの変なおじさんになってしまったイーサン・ホークとフッテージ映像に異様に執着する監督には妙な愛しさを覚えたのだが。
筆者が好きな「ジョン・ウィック」シリーズの製作陣と名匠マーティン・キャンベルのコンビ作ということでおのずと期待値は上がるのだが、マイケル・キートンとロバート・パトリックが登場するだけでなく、バイカー軍団が登場し、高層ビルを使った上下のアクションシーンがあったりと、90’s映画ファンは大満足することだろう。またアクション映画とは思えないほどのエスプリが効いた台詞の応酬を聞かせる俳優陣の中でも主演のマギー・Qが素晴らしく、もっと売れてほしい。