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主人公の女の人は、女だからと軽く見られ、ムカついている。生きづらさを感じている。彼女は行動する人だ。ガンガン攻めていく。当然衝突もする。彼女の母親が、子供はどうするのと問う。旦那もそれは危険だと止める。確かに、彼女が全く正しいというわけではない。悩みに悩んで、それでも彼女が動き始めるシーンはグッとくる。最後、もうどうにも我慢ができなくなって、爆発する彼女たちのヤケっぱちの顔がいい。やりたいことをやり遂げた解放感に満ちている。
箱に入らないと歌えないとか、設定に無理あるやろと思いながら、引き込まれてしまうのは、歌のせいだ。主人公の青年の歌声が、心地いい。聴き惚れてしまう。ドサ回りで韓国のいろんな場所の名物料理が出てくるとこも良かった。どの料理も実に美味しそうだ。初めて箱から出て、上手くいかなくて、苦しんでいる彼を見ていると、胸が苦しくなった。相棒のイケてないおっさんもいい。人が良くて、金がなくて、虚勢を張るタイプ。こういう奴が出てくるだけで嬉しくなる。
エリザベス女王の子どもの頃から今までの映像がちゃんあるってこと。それが決定的に良かった。それぞれの姿に時代が写っている。時間が写っている。見ていると彼女のお茶目なところがよく分かる。競馬に熱中して、飛び上がっちゃうとことか可愛くて仕方ない。沈鬱な表情は見せない。いつも明るく手を振って、握手して、毅然としている。シンドイところを隠して、明るく見せている彼女に心を動かされる。馬に乗っている時の楽しそうな顔。子どもの頃からずっとそれだけは変わらない。
酒を飲むシーンがやたらおもろい。酔っ払って、グダグダになっていくのが、笑える。たわいない話の連続。描写はシンプルでそっけない。描かれない部分を想像しながら見ていくのは、面白かった。隙間を自分で埋めていく楽しみがある。不意に抱きしめるシーンがあって、心を揺さぶられた。何気ない芝居にグッとくるのは、緻密な計算があるからだろうと思う。カメラが突然カクカクと寄ったり引いたりするの、アレなんだろう。よくわからないけど、なんか面白い。
ミスコンに対してアンチを唱える70年代の女性たちの生き様。ルッキズムをここまではっきりとエンタメのなかで問題視してみせる姿勢にこちらの背筋もピンとなる。幼い娘がミスコン出場者の真似をしてポージングしているのを微笑ましいシーンとしてではなく、母親が懸念するシーンとして描くことにこの映画の強さを感じる。生きていく中であたりまえのように存在してきた女性蔑視。その怒りとどう向き合うかこの一瞬で考えさせられる。全然書き足りないけど、とにかく映画を見て!
人前では決して歌えない“ボックスマン”がついにボックスから出てくる――「自分の殻を突き破る」を具現化した物語なのだが、不思議なことに、この歌い手の心情と歌詞が全くリンクしていないことが多くかなり戸惑った。戸惑いつつも妙なエネルギーに触発されて決して嫌な感じはしない。〈オジョチゴ(夕食にチキンを食べよう)〉を歌うシーンなど思わず笑ってしまった。一昔前のアイドル映画の趣すらある。出てくる韓国のご飯がどれも美味しそうで、ロードムービーとしては楽しめた。
テーマごとに分けられたエリザベス女王の映像。そこに多くの音楽重ねられ、その映像を彩ってゆく。アーカイブドキュメタリーとして、ここまでよく映像を集めたなぁという純粋な驚きと、細やかな編集の仕方にも底意地のようなものが垣間見えてくる。ただ、そこから新たな物語が浮き上がってくることはなく、実在する“フィクション”としての女王像が大きく変わることはない。そういう意味での驚きは感じられなかった。ところで、「ノッティングヒルの恋人」は大好きでした。合掌。
映画を見ながら「見えない、描かれていない」部分を想像するのは楽しいことである。だからこそ、何を見せるのかについて作り手の力量が問われる。何を映すか。何を語らせるのか。本作は切りはりのイメージを超えることはなく綿密に練られた脚本だとは到底思えない。とはいえ、ベルリン国際映画祭で脚本賞受賞とのこと。あくまで出演している役者たちのための映画なのだと感じた。映画が不親切であることはむしろ大歓迎なのだが、もっと挑発してほしいと感じた。
美点は多くあるが、1つだけ挙げる。グリフィス「國民の創生」(15)以来、映画において劇場とは「出来事」が生起する場であり、視線が交錯し、サスペンスが醸成する場であったが、この映画はそうした伝統を脱臼させる。劇場でのコンテスト妨害が緊張感とは無縁の弛緩した場面として演出される。それゆえ、映画が提示してきた要素のすべてを統合する場面でありながら、どこか盛り上がりに欠けている。真の「出来事」は視線を逃れた舞台裏で、たとえば女子トイレで生じるわけである。
箱はやはり必要なかった。アイデアとして成功していないということではない。この箱があることで、この箱は是か非かという議論を生んでしまう。しかも、最後に箱のない状態を目指すという物語でいいのか、箱に入ったままを肯定すべきではないか、と観客に考えさせてしまう。要するに、箱の存在によって、この映画の作劇のあり方が問題になってしまう。スペクタクルに特化したミュージカルというジャンルのなかに、作劇術という夾雑物を導入すること。それが不要と思うのである。
英国王室のプロパガンダに連なるこの映画が見せるのは変化よりも同一性だ。垂直に手を挙げて振る身振り、手を差しのべてなされる握手。だがなにより変わらないのは、目を見開いて、口角を上げたまま保つことで生まれる、あの独特の笑顔である。子どもの頃に身につけたものだと最後にわかる。1953年の戴冠式がテレビ中継されたことでも名高いエリザベスはメディア時代の申し子であり、膨大な視聴覚アーカイブに記録されている。本作はそこから手と顔の身振りを抽出した。
前作「逃げた女」(20)では同じ話が繰り返されたが、今回繰り返されるのは「身振り」である。「抱きしめる」という身振りの変奏というわけだ。主人公はそのつど違う人物を抱きしめるのだが、最後に待っているのは彼が「抱きしめられる」瞬間である。つまり、1つの身振りの変奏の中に、その身振りを「される」ことまで含めるのが本作の主眼といえる。抱きしめられることなく、誰かを抱きしめることはできないからだ。なおS・ソクホは次作「あなたの顔の前に」にも抱擁の人として現れる。