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中国が大作でこの手の映画を作るのは人民を洗脳するのが目的であり、海外市場向けじゃない。面白いので必見だが、従って評価は出来ない。そもそも少数民族の山岳地域に検査もちゃんとせず勝手にトンネルを掘り、そのせいで岩が割れて大洪水になると住民を強制避難させ「中国共産党はお前らを見捨てない」などと。どういう理屈なんだ。技術もないくせに高速鉄道など作るな、と私は言いたい。こういう時、少数民族は泣きわめくだけだから歌でも歌わせとけ、という含意にも腹が立つ。
映画は本来劇場で見るものではあるが、こうした映画引用映画というジャンルはコンピュータ画面で見ても面白い。かつてスコセッシ監督が作った「アメリカ映画史」と「イタリア映画史」でもそう思った。史観が私感でもある巧妙さ。高飛車じゃなく親密さが鍵。文脈をどう外し、組み替えるか、という方法論の繊細化を見てほしい。読み替えは違う切り口でも可能で、むしろそれを勧められていることになる。とはいえ知らない映画ばかりで焦る。でも「リヴァイアサン」は傑作だったな。
強烈な家族映画で悲劇を喜劇に変換する演出手腕に感服する。宣伝ポスターに現れない末っ子(弟)が最重要人物とじわじわ分かる見事な構成。強固な家父長制とアルコール依存が問題の根底にあるのは、それ以前に分かっている。三姉妹が過去、弟とどう関わったかがポイントだ。ただし気になるのは次女が、かつての父親のような理不尽さを自身の家族(夫や子供)に対して発揮しているように見えかねないこと。本当はここが怖いのだが、そこは曖昧にするしかなかった。課題は未解決だ。
勝手にブラジル映画と勘違い。予備知識なしで見るのでこうなる。四兄弟のひ弱な末っ子が音楽の道を志すにいたる夏休みを描く。夏休み(&花火)映画にハズれなし。この基本設定のままで日本映画に出来そう。その際には、兄に一人麻薬の売人がいる、というのが変更になるわけだ。事実、私が気になったのはそこ。そういう社会派っぽい挿話が嫌な気分。私がヘンなのかな。ほのぼのした話にしたらいいのに、と思う。この逸脱のせいで音楽関連の部分が薄味になった。なので★は伸びず。
ディザスター映画にとって肝心のスペクタクルパートはインパクトがない。回想や落下の描写の映像技法にも意匠を凝らす気がない。ドラマパートはベタでお決まりの展開しかない。役者それぞれの芝居も紋切り型のキャラクターを一般的な手法で演じているに過ぎない。であるならばこの映画のどこに魅力を見出していくべきなのか途方に暮れてしまった。大文字の他者のために命を賭ける個人の犠牲を賛美するような思想の映画も、この時代に観ればカタルシスよりも危うさが先んじてしまう。
無秩序と解放を謳う「ジョーカー」と「アナと雪の女王」、夢へといざなうアピチャッポンの「光の墓」を引き連れて手堅く幕を開けたこの映画史エッセイは、近年の現代映画を周遊しながら古典映画も再発見せんとする歴史性を重んじた思想が作品選びの底流にも一貫してある。「XXY〜性の意思」や「アッテンバーグ」の引用に驚き、パンデミックにおいていかに映画と向き合ったかに共感し、尽きぬ映画愛に感動した。教科書的でありながら独創的でもあり、後世へと継いでいくべき労作。
そういう構造の映画だとはわかってはいても、いかに三人の女たちが不幸な人生を送っているかを入れ替わり立ち替わり語る終盤の種明かしまでが忍耐を求められる時間となってしまう。とはいえ、待ってましたと言わんばかりの一堂に会する山場には、さすがに落涙を禁じ得ない。個の不幸がそこで帰着せず、韓国社会における「父」の権威を維持せんとする強固な家父長主義へと見事に合流するのだ。だからこそ「父」は個人としての具体的な台詞=語りを持ち得ないまま内省を課されている。
主人公の少年ヌールが不在となる兄弟たちの場面では、手前に遮蔽物を置いた窃視的な構図が何度か使われており、そこにこの映画がヌールの視点を通した彼と兄弟たちの物語であることがあらわれる。ラストショットでヌールが最後の瞬間に第四の壁を破ってカメラをまなざすのも、そうして不在の間にもつねに彼のまなざしが潜伏していたことを流露させるものに思える。よって主題は原題の意味と異なる邦題が含む「母」でも「アリア」でもなく、あくまで「兄弟たちと僕」の方なのだろう。
共感することが不可能に近い浅薄な人間ドラマと、時折挟み込まれる「人民の勝利」を謳う政治的メッセージを見ていると、こんなものは単なる三流プロパガンダ映画だと切り捨てたくもなるのだが、コンテクストを度外視して数分毎に繰り返される八百長災害の中を縦横無尽に動き回るカメラワークは技術的には優れており、もはやアニメなのかゲームなのか映画なのかもわからない奇妙な質感のロング・ショットの数々は、あらゆる境界が崩壊してしまった現代映画の相貌を獲得している。
本作はドキュメンタリーというよりも、作者による極私的な2010年代映画史であり、エッセイ映画もとい「批評映画」という新たなジャンルと言える。もともと紙媒体から出発した批評なるものが、2000年前後を境にブログやSNSといったネット空間上に散在するようになり、映画批評に至っては今やその主戦場をYouTube上のビデオ・エッセイに移しているという流れを鑑みると、「批評映画」である本作は批評史と映画史の両面において歴史的意義を有しているのかもしれない。
難病におかされた長女、宗教にすがる次女、表現活動が停滞する三女。現代人ならではの実存のあがきを抱えた三姉妹の孤独と再生がフレーミングとアクションを通じて丁寧に演出されている。フレーム外への不安を喚起するシングル・ショットの連続と人物の孤立感を強調するようなフル・ショットの連続によって構成される前半、切り返しとツーショットが増える中盤、そして複数人数が同時にうごめきはじめる後半。フレームの中に収まる人間が増えれば増えるほど映画が色づいていく。
南仏の低所得者層の生活描写を見ているだけでもそれなりに発見と驚きがあることは確かだ。しかし近年のフランス映画はそれしか描くべきテーマがないのかというくらいこの主題を繰り返し反復しており、そこへきて本作は語りの面においても、貧しいムスリム系少年が「西洋様」の築き上げたハイ・カルチャーに憧れ、鍛錬を重ねるうちに自我を形成するという、これまた何度見たかもわからない隷属の類型をなぞっており、定型からこぼれ落ちた抵抗の口火が燃え上がるのを待ちわびていた。