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現代から過去へと移動する冒頭の魔術的なショットをはじめ、分割画面やPOVショット、モノクロのアーカイブ映像、スーパー8を用いた場面など、それぞれ質感の異なる映像をごった煮的に提示する演出は、当時のベルリンの狂騒を表現するにあたって一定の効果を上げているだろう。ワイマール共和国を描いた現代独文学の映像化という点では「ベルリン・アレクサンダー広場」の混沌を彷彿とさせつつ、恋や夢を追い絶望する若き三人を軸に据えることで、青春映画としても成立させている。
これまで光を当てられてこなかった戦災孤児たちの記録を取り上げたこと自体は間違いなく貴重だが、苦しみに寄り添う母としての自己を前面に押し出すような構成は、悪い意味で河瀨直美を思わせる自意識の強さが鼻につく。また、「傷の連帯」を謳いつつ、脱北者であるイ・ソンが共有したがらない過去の経験について執拗に問いかけることは、二次加害とまでは言えずとも、彼女の傷の固有性を無視して、質の異なる苦しみを擬似家族的な関係性に回収しようとしているようにしか見えず。
守護聖人を称える祭礼の準備過程を中心に、ペルーのある山岳地帯に住む人々の生活が、実際の村人を被写体として非常にゆったりとしたテンポで捉えられる。時に眠気を誘いもする独特のリズムを強調した撮影は心地よく、また同時に地域アートの文脈を超えた強度を備えてもいる。反復的に現れる鍵穴から奥を覗き込む形のショットも忘れ難い印象を残すが、とりわけ美しい風景とともに時間の経過を観客に強く意識させる、野外での長回しロングショット場面の数々がいずれも素晴らしい。
謎めいたタイトルは、イ・へヨン演じるサンオクの信仰を示すのみならず、より多義的な拡がりを持つ。とうとう自ら撮影をも担当したホン・サンスは、実験性を後退させ、これまでになくシンプルに俳優の演技に焦点を当てた長回しでサンオクと常連組クォン・へヒョの対話を捉えることで、自らの「顔の前」で今この瞬間に生起する心を震わせる光景をわれわれ観客の「顔の前」へと差し出し、「天国」へと結晶化しようとする。コロナ禍以後の現在をめぐる映画としても必見の新たな傑作。
猥雑な自由さと欲望が渦巻きながら開放的とは言いがたい、躁と鬱が混在する1931年のベルリン。ナチズムの足音も聞こえはじめる澱んだ雰囲気を、ニュース映像や8㎜映像などを交えた画面、そして雑然かつ軽妙な編集などによって見事に表現している。しかしそういった撮影や政治的な視点より何よりも感動的なのは、主演二人の碧眼の美しさやベルリンの澱んだ空気から一変、ドレスデンの実に澄んだ風が室内を通り抜けてフワリと揺れる室内のカーテンの軽やかさだったりする。
ポーランドへ強制移送された戦災孤児たちのことを知るため、現地に赴く監督兼主演のチュ・サンミは常にノートを手に持ち、人々の話をメモに取る。しかし、そのノートに書かれた生の字は、なぜか小綺麗なアニメーションへと変換され、映画の章立てを構成する単なる形式上のアイデアとして使われる。戦災孤児たちの過去に触れ、なにを感じて、どのように思考し、どういった筆跡でノートに記したのか。そういった生々しさを捨て、本作は上手な画と構成を作ることに注力しているようだ。
アンデス山間部のとある集落で生きる人々を登場人物にして、彼らの生活と風習や風土を端正な画面で捉える。フィクションともドキュメンタリーともつかないゆるやかな物語は、フィクションにしてはストーリーの輪郭が曖昧で、ドキュメンタリーにしてはあまりに説明が乏しい。その欠如は観客をこの未知の集落に置いてけぼりにさせるような、ただならぬ感覚に陥れるのに成功している。ただし、もっと見る者を挑発的に不安にさせるには上映時間77分は短すぎたかもしれない。
私の顔の前に存在する、しかし決して捉えることの出来ないこの世界の美しさを語る本作。それは登場人物が今なにを見て、どう感じているのかをカットバックよって誘導することを拒否するホン・サンス映画のメソッドの解説のようでもある。その捉えることの不可能な美しさは神の恵みと神秘的に呼ばれるが、映画が実際にやっていることは「息子に瓜二つ」と言いながら、顔が映らないように息子の彼女を撮り、瓜二つかどうかがわからない、みたいなことだったりするのがなんだか良い。
原作の古さも今年70歳のグラフ監督の齢も感じさせぬ渦巻く水流の如き冒頭は、まさに“大人の飛び出す絵本”。児童書とはかけ離れたケストナーの原作は、世界恐慌二年後にしてヒトラーが政権を握る二年前のどこか狂った不穏な時代がアイロニカルかつ愛ある視点で綴られており、映画にもそのエッセンスが随所に。原題の副題で、作者が希望するも出版社に却下されたという当初の書名は『犬どもの前に行く』(=破滅する)。破滅が見える終局のあっけない演出も原作のまま、鮮やかで切ない!
「接続」や「気まぐれな唇」で知られるチュ・サンミが映し出す、遠く離れた国々の“傷の連帯”。朝鮮戦争後、北朝鮮の孤児たちが極秘でポーランドへ送られていたこと自体知らなかったので、衝撃をもって鑑賞した。チュ・サンミの旅に、10代で脱北し、幾多の傷を隠し持つ大学生イ・ソンを同行させ、今も消えない分断の痛みを多重的に描く構成もいい。現在もウクライナから多くの難民を受け入れているポーランドの元教師らが涙ながらに往時を語る顔、その厚い情にただ、感じ入る。
鍵穴を介して内から外を見つめる目線で始まり、そして終わる。序章で穴の向こうに見えるのは、鍵を開けるのに四苦八苦する村人たちの姿。一方終章では奔放に動き回る子供たちを、鍵穴越しの目線のままカメラが自由に追いかける。この対比がテーマ全体を如実に象徴しているのだが、描かれる村の慣習や守護聖人=サンティアゴ(大ヤコブ)を崇める信仰、スペインによる侵略の爪痕などへの知識が足らず、正直難解な印象に。色のない寂寞とした風景や村人の後ろ姿、歌声は深く響いた。
二回観て、この映画にはすべてがあると思った。「今」と「過去」、それから見通せる範囲のかすかな「未来」。三つの時間を同時に抱え、また人が生きる中で通過するあらゆる思い――哀切や郷愁やささやかな幸福や純度の高い愛や感謝やかすかな悔恨や鈍い痛みなど――をも同時に湛えた映画だと。ラスト、眠る妹を見つめる主人公を捉えた宗教画を思わせる荘厳なショット。そこで静かにカメラが引いて行く。監督得意のズームではなく。ホン・サンスは、遂にここまで来てしまったのだ。