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最後までドリフトレースの勝敗基準が分からなかった。だからいくら車の走りをカッコよく撮っても、映画的カタルシスに繋がらない。ハリウッドはちゃんと説明するけど。ルーティンが悪い訳ではないが、人物も展開もルーティン過ぎて魅力がない。ルーティンを積み重ねて、定番から逸脱した感動を生み出さないと。ハリウッドはそこも上手い。みんな、なんでそれを勉強しないのか。マーヴェリックの時代にトップガン以前に留まっていては。何百分の一の予算で勝負するなら、中身でしないと。
プラン75が観念なのは承知しているが、制度を選ぶ人は具体。ならば人物配置はこれで良かったか。死を選ぶ人2人。制度側2人。死体処理の外国人労働者1人。その5人から観念=生産性のない者に生きる価値はない=この国の病理が浮かび上がらなければいけないのに、それがピントを結ばない。選択する人を何人か見せて、あとは倍賞千恵子と河合優実の話にした方が良かったのでは。内面の変化が何も見えない。河合のラストカットなんて意味不明だし。カンヌは何を評価したのだろう。
芦田愛菜が嫌いだった。というか子役が、芦田愛菜的なモノが、嫌いだった。しかし本作で一変。ずっと何者かだった芦田愛菜は、何者かになれるはずないと諦めている少女をなぜあんなにビビッドに演じられるのか。彼女もまた居心地の悪さを感じているのか。少女の変化は微かだが、映画的躍動は大きい。嫌味ではない抑制。脚本演出俳優すべて見事。これ、表現者はみんな泣くんじゃ。あれだけ嫌いだったものを好きにさせるなんて、映画ってスゴい。芦田愛菜のこの先をずっと見ていたい。
比例代表は共産党に入れてきた。しかしこの映画はいただけない。「百年と希望」という大きな題名を付けるなら、共産党の黒歴史も描かないと。それをどう受け継ぎ、今があるのか。それなくして党は変わった、新世代には希望があると言われても。個人に対しても掘り下げがなく、薄ボンヤリした印象しか残らない。批判の刃は自身にも向けないと。志位体制に触れたくないのか。参院選のプロパガンダ映画でもいいが、それですらない。見事に何もない。なんか共産党に投票したくなくなった。
レースシーンが生々しい。ドリフトという競技に焦点を絞り、これをいかにリアルに撮るかに注力したからだろう。車と車がギリギリまで接近するスリルも、強烈なGがかかるコックピットのドライバーの表情も真に迫っている。レースカーのエンジン音に臨場感があり、タイヤの焦げる匂いまで伝わってきそう。貧乏なレーシングチームを内向的なゲーマーが救うというドラマは定型的だが、弱きが強きをくじくというスポーツ映画のツボを押さえていて痛快。ラストも西部劇みたいだ。
甘美な政府広報、炊き出しの公園での勧誘活動、慇懃なコールセンター、身を委ねるしかない医療、経済効果を伝えるマスコミ……。我々の周囲に現実にあるものが一瞬にしてSF的ディストピアの装置になる。それが怖い。「楢山節考」が姥捨てを正当化するムラの論理と向き合うのに対し、この映画は姥捨てを正当化する国家の論理を冷徹に見据える。すでにそんな国家の論理はあちこちで露見していないか? システムの中に組み込まれた狂気を、早川千絵は淡々とした手つきで抉り出す。
何事にも自信のない女子高校生の自分探しの物語であり、そこから一歩踏み出す物語。芦田愛菜が独特のリアリティーをもって演じている。すでに少女ではないけれど、性的な魅力にあふれるというわけでもない。そんな中途半端な年ごろの感情を、実に理知的に表現している。ある時期の高峰秀子みたいで、稀有な女優だ。メンターとしての老婦人を演じる宮本信子もまた知性が嫌味なく出せる女優で、はまり役。二人が絡むことで、昨今の日本映画には稀な清潔なドラマになっている。
同じように若手政治家に迫った大島新やマイケル・ムーアの映画と違って、どうしてこうも出てくる議員一人一人に魅力がないのか? 個々の議員の問題ではなく、この映画の問題。彼ら彼女らはオジサン社会や新自由主義を批判するけれど、この映画にはオジサンも資本主義も映っていない。だから彼ら彼女らが何を批判しているのかわからない。どんな社会を目指すのかも見えない。批判する対象も目指す社会像も漠然としていて具体性がない。あるのはヒステリックな叫びばかりだ。
天才ゲーマーが実世界でも頂点を目指す少年漫画のようなストーリーに既視感はあるが、日本発祥の唯一のモータースポーツという割には馴染みの薄い“ドリフト”の魅力を、臨場感たっぷりに押し出すことを最優先させた潔さが奏功。監修も務める土屋圭市氏自らナチュラルに演じる競技の解説場面も、「ピッチ・パーフェクト」シリーズの名物審査員コンビのごとき辛辣なユーモアが利いて、観ている側まで身体に力が入ってしまう緊迫のカーアクションが続く中、程よい緩急を生んでいる。
急激な高齢化が進行中の現状を踏まえた近未来的な題材であるが、衝撃の冒頭から、高齢者=社会的弱者とみなすアナクロな感覚も散見する。いかにも短篇向きの設定のオリジナル版から長篇として成立させるにあたり、想像豊かに話を膨らませたのに伴い、新たな消化不良を生んだ感も。表情や声色のニュアンスだけでショットの密度を格段に高める倍賞千恵子が、孤独や困窮だけでは決してない、老いとともに生きる女性の凜々しさや覚悟を体現し、描写の補完を寡黙かつ力強く担っている。
世代こそ違えど、いい年齢の重ね方をしてきた女優同士が、満を持して再共演を果たす幸福感。ふたりが夢中になるBL作品の盛り上がる展開を、インパクト大の漫画カットを的確に選び凝縮して映し出すことで、家族にも理解されぬ趣味を分かち合う友情の醍醐味や、それを育む高揚感も追体験できる。いろいろと逃げてきたうららが初めて真剣に挑む設定の、原作者自身の手になる漫画が醸す深い味わいに、原作への敬意を最高の実写化で証明せんとする製作陣の、自信みなぎる気概も窺える。
日本共産党にも1票を投じるに値する人材がいて、そのひとりが実母に言われてショックだったと語る、“娘を赤にするために産んだ覚えはない”といった偏見のようなものを取っ払うのには、一役買う作品かと思う。ただ、理想に燃えて政治にも関心を抱く若い世代が、その受け皿に共産党を選んで一斉に支持に回ったところで、低迷する投票率などクリアするべき問題は他にも山積みで、よくも悪くも、楽観的に“希望”を見出せてしまうようなプロパガンダには仕上がっていない。